Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

英国を救ったケルトの不思議―2


今から1500年程前、12人の僧侶の一団が船に乗り北アイルランドを発った。後ろに安全で文明化された場所を残した彼らが向かった先は、不安定で、危険で、敵対的な他所者の土地、ブリテンだ。
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彼らの旅は急速にブリテンの歴史の進路を変えることになる。何故なら、この12人の僧侶たちがブリテンを学問のない遅れた場所から文明と学問の場所へ改革する切っ掛けを創るからだ。

How the Celts Saved Britain:Salvation
ケルト人がどのように英国を救ったのか:救済
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6世紀の中頃だった。かつて強力で、豊かで、文明化され、キリスト教徒だったローマ帝国が崩壊して既に1世紀が経過していた。
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ヨーロッパでは混沌と紛争が続いていた。ローマの属州だったブリタニアにゲルマン系Germanic部族が侵入して、キリスト教やその他ローマ文明が残したものをブリテンから追い出していた。彼らは、今やブリテンの大半を制圧し、邪教の神々pagan godsは暗闇の中で社会を統治していた。
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しかし、ローマに占領された歴史がないアイルランドでは、キリスト教宣教師たちが、ローマ帝国崩壊後の古代世界の一つの遺産だったキリスト教を通じて、かつて野蛮だった土地を変革していた。修道院は島中に造られ、学問、技術、新しい文明を育んでいた。
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西暦563年、彼らがスコットランドの西海岸に上陸した時、天候は今日のように曇っていたのは疑いのないところだろう。
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見も知らない土地への旅で12人が危険の中にいたのも間違いない。当時は不安定の時代で、よその土地から訪れる者は捕えられるか殺される危険を抱えていた。しかし僧侶だった彼らは海岸を歩きながら、それ程は心配していなかった。彼らは、全く敵対的な他所の土地に来たわけではなかったからだ。実質的には、まだアイルランドの中にいたのだ。

何世代もの間、アイルランドの領域は拡大を続けていた。アイルランドのダルリエイダDalriada王国はアイルランド海Irish Seaを跨(また)いでいた。
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ゲイル人Gaels又はスコティScottyとして知られていた彼らは、新しい国に新しい名前を付けた。スコットランドScotlandだ。ダルリエイダはもう存在していないが、中心地は今のアーガイルArgyllだ。アーガイルは古代の起源を裏切った名で、ゲイル人Gaelsの海岸を意味する。私にとっては馴染みの場所だ。私の祖先の出身地で、子供の頃はよく遊びに来ていた。大抵、雨が降っていたが。
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12人のアイルランド人僧侶は丘の上の砦ディナン(?)を目指していた。ダルリエイダの王がいた所だ。彼らは何重にも巡らされた囲いや城壁を通り抜けて進んでいった。僧侶たちの指導者は既にアイルランドの教会で著名になっていた男だった。彼の名はコラムキラーColumbkilleでラテン語の別名コルンバColumbaで知られていた。
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コルンバとダルリエイダの王は、対等の立場にいたようだ。コルンバはアイルランドの上王の家系の男で、政治的な力を駆使できる族長の経歴を持っていた。しかし、教会の仕事に関与するようになると、40代前半で、カリスマ的な権力を得るようになった。貴族の生い立ちで裏付けられた彼の自信は効果があったはずだ。何故なら、今回のミッションでは外交的な技術が信念と同じくらい重要だったのだ。
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これは表敬訪問以上のものだった。コルンバは、王の土地での布教についての許可と保護を得る必要があったのだ。ダルリエイダが管轄していたのは、山岳地帯と海岸に挟まれた細い領地だった。山岳地帯の向うは敵地だ。
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許可と保護に加え、コルンバはもう一つのことを望んでいた。教会を建てる土地の提供だ。その要請は認められた。ダルリエイダの領土の端で、町から40Km離れた小さな島が与えられた。コルンバと彼の僧侶たちは、以降、ずっとそこで活動することになる。島の名はアイオナIonaという。
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フェリーに乗って島を目指していると、今でも、地球の果てに向かっている感じがする。フェリーを3回乗り換え、4時間の船旅をしてやっとここまできた。
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しかし、ここは物事の中心になった場所だ。コルンバと彼の従者たちが島に到着して居住地を建てると、数年の内に、繁栄を始めた。大勢の人が島に往来するようになったのだ。世界におけるキリスト教布教の拠点になったと言っても過言ではないだろう。

アイルランドン人の僧侶たちは、アイオナの浜を辿って、キリスト教に対する信仰だけではなく、新しい運命の種を運んできたのだ。
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「島は寒いですねぇ。ところでこの島における彼らの最優先事項は何だったのでしょうか?」
ウルスター博物館ボーク氏「まずは住家を建てることでした。そして教会を作ることです。何故なら、生存が確保出来たら、直ぐにお祈りを始めなければならなかったんです。」
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「修道院や教会が出来ると直ぐに、この場所が急成長を始めたんですね?」
「そうです。今残っている教会や修道院monasteryは、昔、修道院教会abbey churchが建っていた場所に造られたもので、昔の建物は木造でした。修道院のような建物は、この地方では、それまで造られたことはありませんでした。ここで人々は祈りだけではなく学問も、新しい技術も学ぶことが出来ました。新しい開拓地New Frontierだったんです。様々な人々がアイオナにやって来ました。教会は傘のようなもので、異なる政治的な背景をもつ人々を保護しながらキリスト教や新しい学問を広める役目を果たしていたのです。」
「コルンバは、どうして、様々な人々をそんなにも引き付けられたのでしょう?どうして、そんなに大きな社会に成長したのでしょう?」
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「彼のカリスマ性ではないかと思います。ここに来る人々は単に僧侶に告白するというだけではなく、コルンバの助言や判断を求めていました。そして共同体の一員に加わっていったんです。人々にとって彼は磁石のような人物で、自然に引き付けられていったんでしょう。アイオナは人里離れた辺鄙(へんぴ)な場所でしたが、中世の初期における宗教的、知的な生活の中心地になっていきました。」
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修道院社会が繁栄を始めると、コルンバはアイオナIonaの海岸の向うを見るようになった。そして、西暦560年の後半、キリスト教の力を新しい危険な土地でも獲得するための旅に出た。彼は内陸に歩を進めていた。
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内陸とは言え、船旅が最善の選択だった。一帯は深い森で覆われていて、地上の道を辿るのは不可能に近かったのだ。彼の道のりはまだ先だった。
ネス湖Loch Nessやグレイト・グレンGreat Glenを抜けて進んだ。目的地はスコットランドの反対側にあるインバーネスInvernessだ。
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アイオナからインバーネスまでは160Kmほどだ。グレイト・グレンに囲まれたスコットランドを移動するには、小さなボートが最善だっただろう。コルンバもボートを使ったはずだ。不毛の土地に道など無かっただろうし、水の上の方が安全だということもある。
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彼はダルリエイダ王国を発って以降、安全とは程遠い土地に踏み込んでいたのだ。見知らぬ土地、見知らぬ言語の中にいた。通訳を連れてきたので言葉の問題は無かったが、安全は最重要だ。ここは敵地ピクト人の土地Pictlandなのだ。

(mh:アイオナIonaはアイリッシュ海Irish Seaに浮かぶ小さな島で、インバーネスInvernessは北海North Seaに続くモレィ湾Moray Firthに面した町です。アイルランドでは“Inverは河口”、“Lochは湖”“Glenは谷”を意味し、ネス湖Loch Nessから流れ出るネス川River Nessの河口にInvernessの町があります。Google Earthで確認しましたが、小さな船なら、西のIonaから東のInvernessまで運河やネス湖を伝って移動できます。)

ピクト人はスコットランドの北と東を支配していた。コルンバには、彼らが原始的で野蛮な人々に見えていた。アイルランド人が文学を持っていたのに対し、ピクト人は奇妙な絵石pictorial stoneを彼らの土地に点在させていた。アイルランドが文明の中心に修道院を持っていたのに対し、ピクトの土地は未だに鉄器時代のままだった。
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アダムナンAdomnánという名の僧侶が纏めた“コルンバの伝記”は、ピクトの邪教に対するキリスト教の卓越性を示す奇跡の物語で溢れている。アダムナンが述べた奇跡の一つが、ネス湖の怪物monsterだ。土地の人たちは怪物が襲ってくるので困っているとコルンバに不満を漏らした。そこで、同行してきた僧侶の一人を湖に行かせてみると怪獣が現れた。コルンバは“その男を襲ってはだめだ!”と叫んだ。すると怪物は湖の底に戻っていった。住民は馴染みのなかったキリスト教の神の力にとても感銘を受けたという。
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<御参考>Wiki;ネッシー(英: Nessie)
スコットランドのネス湖で目撃されたとされる、未確認動物「ネス湖の怪獣 (Loch Ness Monster、ロッホ・ネス・モンスター)の通称。記録として残されている最古の記録は西暦565年、アイルランド出身の聖職者コルンバの生涯に関する伝記中で言及された、ネッシーの発見報告である。

アダムナンは、別の多くの奇跡についても述べているが、それは歴史ではなく、伝説と聖人伝が一体になったものだ。当時の新しい英雄たち、キリスト教の聖人たち、の周囲を神話で飾ろうと考えたのだ。しかし、ピクトランドのこの一帯を進むコロンバの旅や、彼と共にキリスト教を持ち込もうとすることの危険については、誰も、誇張する必要がないほどの真実であっただろう。
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危険を伴うコルンバの宣教missionはインバーネスで最も高まった。彼はそこで最大の挑戦に出会う。ピクトランドの邪教の王ブリディBrideiだ。

ここはグレイト・オドゥリックの砦の丘だ。ピクト人の王ブリディの強力な拠点だった。
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彼は、アイルランド系の国ダルリエイダと戦をしたばかりだった。従ってコルンバがここにやってきたのは、ライオンの住家に踏み込むようなものだった。コルンバが来た時、門は閉ざされていた。しかし、彼が十字を切ったら開いたと伝えられている。
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この力強い魔法で、彼は王からの尊敬を獲得したと伝えられている。
これらの奇跡のような物語を文字通り取るべきでないのは当然だ。ここで重要なのは、象徴主義symbolismなのだ。

エジンバラ大学エラスター博士「彼は間違いなく、ピクトの王を威圧しようとしていました。自分の力の方が王の力よりも強いことを示そうと試みていたのです。そしてピクトも彼の力を認めました。」
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「それで、土地を侵略して布教することと比べて、極めて簡単に、短期間にキリスト教をピクトの中に広めることができたわけですね?」
「そうです。王ブリディは他の部族の王たちと対立していました。キリスト教の力を使えば、大した苦労もせずに自分を有利な立場にすることが出来ると考えたのだと思います。」
「キリスト教が大きな奇跡を起こしてくれるのではないかと考え、自分たちの宗教を変えようとしたということですね?」
「キリスト教の神のもつ力を信じたのではないかと思います。ピクトはローマの影響を全く受けたことがありませんでした。しかし、キリスト教の神が持つ力には、感じるものがあったのでしょう。キリスト教を信じている人々の社会が自分たちの社会よりも進歩し、繁栄していることを知り、受け入れる気になったのだと思います。」
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大きな新しい考え“キリスト教”は敵を持っていた。ピクト社会の中にあり、昔からずっと邪教を広めて来た集団だ。私が言っているのは魔法使いwizardのことではない、ドゥルーイズDruidsのことだ。コルンバと、ドゥルーイズの影響を受けたロイキャンと呼ばれるグループの間で対立が起きた。コロンバはアイルランド系のゲイル人Gaelsの奴隷を解放するよう、彼らに要求したが、彼らはこれを拒否した。すると、コルンバは彼らに魔法をかけて解放させたという。この話は次の2つを示している。一つは、コルンバが断固として奴隷制度に反対していたということ。もう一つは、キリスト教の魔術の方がドゥルーイズの魔術よりも影響力が大きかったということだ。
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鉄器時代の人々だったピクト人にとって、キリスト教の魔術力は近代化、更なる繁栄、文明をももたらすものだった。

インバーネスから220Km南に残っているピクトの芸術品は新しい信仰が古い邪教信仰とどう置き換わっていったのかに関する興味深いヒントを提供している。
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ピクト社会の変化はスコットランドの東海岸のアブレンノン(?)に建っている複数の魅惑的な石碑に表現されている。向う側にあるいくつか石碑はキリスト教以前の先史時代を象徴するもので、この石碑の片面と同じだ。Z型の幾何学的な模様、狩りの様子、自然界のさまざまな題材、が彫られている。
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反対の面を見てみよう。支配的になった新しい宗教を示す大きなシンボルが上から下まで碑一杯に描かれている。下の両側には天使の姿も彫られている。
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大きな変化がピクトの社会で起きていた。宗教だけではなく、政策も、民族性すらも変わろうとしていたのだ。
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キリスト教はピクト人を新しい人々に変革していった。彼らの言語は薄れ、ゲイル語を話すようになった。アイオナから新しい宗教をもたらしたアイルランド人の僧侶のように。同時に、彼らは自分たちの名前も失い、ダルリエイダのゲイルにならって“スコットScots”と呼ぶようになった。
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コルンバが進めたピクトの改造のおかげで、今日、我々がスコットランドとして知っている地域の全域で、アイオナを教会の本山だと見るようになった。キリスト教はスコットランド全体を団結させる力を生んだ。それがスコットランド王国の形成の出発点になったことは間違いない。つまり、スコットランドはその起源をコルンバとアイルランド人に負っているのだ。
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アイオナは中世初期のスコットランドにおけるウエストミンスター修道院Westminster Abbeyになった。
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宗教と政治の力が結合した場所だ。教会における、この2つの力の密接な関係は、コルンバの時代にその起源を持っている。ここからそう遠くない場所で、コルンバは著名な客と一緒に儀式を行った。
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その儀式は、この地方ではとても重要なもので、ヨーロッパ全体にとっても意義のあるものだった。客はダルリエイダの新しい王エイドンのガベロンだった。
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(アドムナン“コルンバの伝記”より)「神聖なる人はアイオナに駆け付けた。到着すると聖コルンバは彼を王に任命した。聖コルンバはガベロンの土地の将来を予言し、彼の手をガベロンの頭の上に置いて王に任命し、彼を祝福した。」
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それは王制に対する考えの改革だった。それ以前はダルリエイダの指導者たちは邪教の祝福を求めていた。しかし、今度はキリスト教からの承認を求めたのだ。以降、何世紀もの間、ヨーロッパの全ての王国はこの出来事に倣(なら)うようになった。キリスト教の力は権力と表裏一体になったのだ。
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しかし、当時のコルンバにとっては、これは勝利だった。彼の威信と影響力は飛躍的に増大したのだ。

コルンバの教会が書き残したものはコルンバの膨れ上がった力と重要性に関するものばかりではなかった。アイオナは西洋芸術の完成品の一つと関係がある。“ケルズの本The Book of Kells”だ。
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(mh:ケルズKellsはアイルランドの修道院の名。聖コルンバの偉業を讃えるため、アイオナ修道院で作成が始まり、完成したのはアイルランドのケルズ修道院。アイルランドの国宝)
ケルズの本の原本はダブリンのトリニティ大学Trinity College図書館にある。それは余りに繊細な本なので残念だが撮影することはできない。しかし、幸運にもある人物がコピーを作っていた。
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とても重くてページ数も多そうだ。当時、世界でも最も大きくて厚い本だっただろう。中身を見ると判るが、修道院で書かれた本としか考えられないものだ。
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当時、修道院だけが、このような本を作るための資金と、決意と、技術支援力を持っていた。この本を作るには多くの写本家が何年もの時間を費やす必要がある。中世の歴史家の一人が“人間ではなく天使の作品”と言っているのもうなずける。
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本は宝石箱casketや羊皮紙の上に描かれていた4冊の福音書の絵の複製品だ。コロンバの死の何年も後、恐らくアイオナで描かれた。複雑に縒(よ)り合された、幾何学的で精緻な模様で、1ページ仕上げるのに何週間もかかったことだろう。
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本全体では300枚(600ページ)以上で、恐らく、何年もかけて作られたはずだ。実際の所、本は未完成のまま残されている。聖ジョンの肖像画では定型化された羽根ペンと、インク壺と、手にしている写本が、この作品を作った人物に敬意を示している。
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現代の写本家が、本の作り方について解説してくれた。
写本家ポール「驚異的ともいえる一品です。全てを包括していて、重厚で、刺激的です。」
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「これを作成するための組織の規模は考えられないほど大きくて広かったんでしょうね?」
「測り知れない程の仕事量ですからね。羊皮紙を手に入れるだけでも、大変だったと思います。150枚もの子牛の皮が必要でした。一つの皮から2枚の羊皮紙しか取れないのです。だから彼らは140匹から150匹程度の子牛が必要でした。子牛の群れ2つですよ!牛を殺し、皮をはぎ、洗浄し、なめすんです。300枚分も!ものすごい仕事量です。」
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「色についてはどうでしょう。どんな方法でこれらの色を手に入れていたのでしょう?」
「恐らく黄色が最も興味深い色です。」
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猛毒の物質から作られています。恐らく、この写本の中で使われている最も有毒な色素でしょう。砒素(ひそ)です。これは砒素の硫化物です。」
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「これを使って仕事をしたくはない代物です。修道院では大勢がこの毒で死んでいるはずです。色素として使う前にいろいろ調べないといけなかったはずですからね。大勢が死んだ後で、これが毒だと気付いたのではないでしょうか。」

「何ヶ所かで他とは異なる深みのある青が使われています。」
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「群青ultramarine blueはラピス・ラズリで、当時はアフガニスタンの鉱山からしか採れませんでした。つまり、そこから送られてきた石が使われているのです。誰かが、これを手に入れることができる誰と接触したのです。驚くほどに広いネットワークがあって初めて手に入れることができた色素です。」
「世界中に、複雑で、広い繋がりがないと、この本は創れなかったということですね。」
「芸術品として、本として、組織的な技術として、この本は見事な作品だとしか言いようがありません。」
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西暦597年にコルンバが死ぬと遺体はアイオナに埋葬された。邪教だったピクトの土地はキリスト教の恩恵を受けながら“キリスト教のスコットランド”への変革の道を歩んでいた。
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しかし、ブリテンの他の地方はどうだったのだろうか?

イングランドの北部(mhスコットランドの南部に接している場所です)に造られた長さ110Km以上のヘイドリアン長城は、かつてはローマ占領下のブリテンの威力を象徴していた。
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文明化されていない野蛮人ピクトから、文明化されキリスト教化されていたブリタニアBritanniaを守るために造られた。しかし、今では全く異なる境界線になっていた。その役割には劇的な逆転が起きていたのだ。

もしローマ人が振り向いたとすれば驚いただろう。長城の北は野蛮で暴力的な場所だった。しかし、今はキリスト教が法律、学問などを取り仕切る土地になっているのだ。その一方で、長城の南のこの地は、ローマ的でキリスト教的だったのに、全く、そうではなくなっていた。キリスト教は所々に残ってはいたが、ローマ属州だったブリタニアの大半は邪教徒サクソンの手中にあったのだ。

サクソン人は軍隊として、150年程前に、ブリテンの海岸に到着していた。
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歴史書は乱暴な戦士たちが、先住民のブリテン人を簡単に征服し、かつてのローマ帝国の属州ブリタニアを占領していく厳しい様子を描いている。国土には多くのゲルマン系の王国が生まれた。彼らは同じ祖先をもちながらも領土を巡り、絶えず紛争を繰り返していた。
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マンチェスター大学ライアン博士「当時の様子は、統一された英国のイメージは全くありませんでした。パッチワークのように、小さな王国や少数の人々の集まりから出来ていました。言語や文化のある一面には共通性がありましたが、その他の面では、それぞれが独立していたのです。」
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「これらの小さな王国間の関係はどんなものだったのでしょうか?」
「多くの場合、敵対関係にありました。かつて発展していた王国も別の王国に占領され、吸収され、大きな王国が生まれていきました。こんな状態でしたから、戦いはいつも行われていたという訳ではなく、時々、起きていたと考えられます。」
「キリスト教やその他の宗教という観点ではどうだったのでしょうか?」
「宗教的には邪教のままでした。しかし、邪教そのものも、キリスト教との接触で変化していました。6世紀の終わり頃まで邪教の寺院が造られたのですが、その後、邪教の一神教のようなものに変化しました。特にウォールデンが敬(うやま)われたようです。」
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「ウォールデンというのは戦いの神ですよね?」
「そうです。その類の神です。恐らく戦士の貴族や王族の社会が出現してきたためではないかと思います。」
「キリスト教に変化していないということは、アングロ・サクソンはキリスト教の発展を破壊していたということでしょうか?」
「というより、限界にあったのだと思います。学問がなくても出来ることはある程度はありましたが、学問は未開の土地を管理するにはとても重要な手段です。従って、それがない彼らは社会や王国の拡大の限界にあったんだと思います。」

アイオナの力は、邪教でサンクソン化したイングランドに焦点を当てていたと思うかも知れない。
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しかし、アイオナよりももっと離れた所から昔のローマ属州ブリタニアを見ている目があった。

ローマ帝国は消滅していたが、彼らが受け入れたキリスト教は教皇を戴いて都市ローマで生き残っていた。
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アイルランド系の修道院が独立的self-governingだったのに対し、教皇制は中央集権化されていた。ローマ帝国の官僚制と共に、ローマの野心をも受け継いでいた。
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ヨーロッパで着実に権威を拡大していたが、その影響はブリテンやアイルランドに到る直前で留められていた。新しい教皇で野心的な大グレゴリーGregory the Greatは、この状況を変えようと決意し、それを実現するため、ブリテンに使節団を派遣した。
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教皇に派遣されたアイル・オガスティンは西暦597年にブリテンのケントKentに上陸した。コルンバが死んだ年だ。
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彼はケントの王エセルバートと屋外で面談した。サクソン人は、室内ではキリスト教徒が黒魔術を使うのではないかと恐れていたのだ。しかし、王エセルバートはキリスト教について何も知っていなかった訳ではない。事実、彼の妻はゴール(フランス)の出身で既にキリスト教徒だったのだ。結局、彼は自分自身だけではなく彼の王国の人々をキリスト教徒に改宗することにした。ローマ使節団の目的は直ちに実現の道を進み出したかに思われた。オーガスティンと彼の使節団は、目的の達成は容易そうだと思ったはずだ。
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しかし、彼は直ぐ考え直さねばならなくなる。

使節団は北に移動し、ケントを過ぎてテームズ川を越え、エセックス王国に入った。首都はロンドンだった。そこに教会が建てられた。セント・ポール寺院だ。同じ場所に現在のセント・ポール大聖堂が建っている。
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セント・ポール寺院の建設は使節団の力が増しつつあったことを暗示する。しかし、ケントから北の地方に移動していくにつれ、サクソン人に新しい信仰を抱かせる仕事がどんどん難しくなっていくのがわかった。このことについて中世の歴史家は言っている“サクソン人は頑固で、キリスト教による精神的な利益よりも現実的な利益の方に関心を持っていた。”その一例だが、新たにキリスト教徒になったサクソン人の祭司は、戦いの結果が彼の立場に不利なものだったので、教会を冒涜(ぼうとく)したという。

我々は、歴史家ビードBedeの記録のおかげで、当時の出来事の詳細な知識を得ることが出来る。事実、彼の記録は英国で書き記された最初の歴史と言える。その中でローマの使節団の目的が、どのように瓦解(がかい)していったのかを記している。
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改宗の鍵となるはずだった東サクソンの王が死んだ。彼はキリスト教に改宗していたが、3人の息子は邪教徒のままだった。ある日、彼らはセント・ポールに殴り込み、父王が教会からもらって食べていたパンをほしいと要求した。司教はだめだと言った。何故なら、彼らは父と異なりキリスト教徒ではなかったからだ。しかし、これに納得しなかった3人の邪教徒の王子たちは、司教とその従者たちをロンドンから追放してしまったのだ。ロンドンは邪教に戻っていった。20年後、使節団がブリテンで改宗に成功したのはケントだけになってしまった。
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イングランドの北では、邪教をキリスト教に改宗させようとする別の試みが始まっていた。ノースアンブリア王国Northumbriaは、当時、最も強力なアングロ・サクソンの領土だった。王国は激動の中にあった。王は近隣の部族と紛争し、敵を殺害していた。キリスト教の枠組みは僅かに出来上がってはいたが、ロンドン同様、邪教の暗黒の中に戻りつつあった。西暦634年、ノースアンブリア王国の若い新王オズワルドは王国の中心とも言える、ここバンバーBamburghの難攻不落な砦に到着した。
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12歳の時、父が戦いで殺され、命からがら逃げて来たのだ。その後18年間、亡命生活を続けた。年月は彼を変え、ブリテンも変わっていた。何故なら、彼は当時、アイオナで過ごしていたのだ。キリスト教徒になり、邪教の王国をキリスト教の国に変えようと決意して、ノースアンブリアに戻った。彼はアイオナから司教にきてもらい、彼の支援をしてもらおうと考え、アイオナに従者を派遣した。一人の司教が来たが、直ぐにアイオナに戻ると、英国は文明化していなく、野蛮で、頑固だから変革はとても不可能だと報告した。
歴史家ビードの“英国教会と人々の歴史”には次のような記載がある。
「司教がここアイオナに戻った時、緊急会議が招集された。それは何をすべきかを決める会議ではなかった。しかし、一人の若い僧侶が、果敢にも彼の意見を述べた。」
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「 “みなさん。みなさんは、ここで学んだことや、しなければならないことについて、もっと厳格であるべきだと思います。簡単な宣教活動だけに注力すべきではありません。難しくても、神の言葉を伝えたなら、彼らは更に大きな神の愛情を受け入れるようになるでしょう。”」

部屋の中の誰もが若い成り上がり者を見て、誰か黙らせる者はいないのだろうかと思った瞬間かも知れない。しかし、彼の言葉は感動を与えたのに違いない。何故なら、彼は司教となり、その仕事を成し遂げることになったのだ。彼の名はエイデンAidenだ。彼がアイルランド人使節の最後の偉大な人になる。
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オズワルドの保護を受け、エイデンはリンディスファーン島に最初の教会を建設した。西暦635年、島は神聖な場所となった。
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リンディスファーンは訪問し易いアイオナとも言える。2つとも海で囲まれているのだが、リンディスファーンの場合、潮が引くと土手道causewayを辿って歩いていける、1400年前の僧侶たちのように。

東海岸の岬の先端にぶら下がるような場所で、厳しい気象条件に翻弄されながら佇(たたず)む教会に、審美的な感情をもつ僧侶なら間違いなく歓喜しただろう。アイオナの最初の建物のように、ここでも昔の教会はなく、その跡に新しい建物が建てられている。
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しかし、粗末な初代の教会から、急速に重要な場所として成長し、交易の場所であると共に、北イングランド(mhスコットランドの南に接しているイングランドです!)にキリスト教のメッセージを伝える核になっていった。オズワルドの牙城バンバーから数Kmと近く、オズワルドとエイデンの関係を強力に保つのにも都合のよい場所だった。オズワルドはエイデンの説教を英国の貴族たちに翻訳して伝えることもあったのだ。教会と王国の親密な関係はエイデンがミッションを成功させるための重要な要素だった。

王との密接な関係があったおかげで、エイデンはしばしば貴族から贈り物をもらった。彼は、そのような習慣は好きではなかったが、活用することにした。以前のコルンバのように、彼は奴隷制に反対だった。そこで貰った贈り物を奴隷を解放するために使った。解放された奴隷の多くはキリスト教に改宗した。また、オズワルドは邪教の貴族たちを率いて戦いに臨んだ時、“自分は勝利を約束してくれるコルンバの姿を見た”と話した。そして、戦いに勝利すると、キリスト教に改宗するよう貴族たちを説得した。こうして、キリスト教の布教は、トップダウンで進められていった。トップが改宗すれば、これに従う者たちも改宗していったのだ。
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奴隷や貴族たちが考えを変えていったことは容易に推定がつくが、その他の大勢の人々はどうだったのだろう?
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ドゥアラム郡のエスコーは邪教の国の中でも、最初に教会が建てられた所だ。
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「7世紀、ここでキリスト教が崇拝されることになったのは何故でしょうか?」
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オックスフォード大学フット教授「キリスト教はアングロ・サクソンの社会の中で、全ての身分の人々に大きなインパクトを与えたのです。そのひとつとして、キリスト教が永遠の質問に対する答えを与えてくれたことが挙げられると思います。何故わたしたちはここにいるのか、将来はどこにいくのかなどといった疑問に答えたのです。キリスト教はこの世における永遠の生命と救いを約束していました。永遠の世界は、今生きている世の中よりも平等主義的でした。社会的な身分差別は、邪教では永久に続きますが、キリスト教では消滅するのです。それが大勢の人に受け入れられる要因になったと私は思います。」
「つまり、あなたはキリスト教には大勢の人々に対する本当の支援があったと考えていらっしゃるのですね?」
「生まれた子供は誰もが洗礼を受けました。死ぬと誰もがこの教会で埋葬の儀式を受け墓地に埋められ、次の世に安らかに旅立ったのです。」
「邪教からキリスト教への改宗はどのように革新的だったといえるでしょうか?」
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「間違いなく基本的なfundamental変化だったと思います。生活の様式についても新たな方法を細かく定めていました。例えば結婚や葬儀をどのように考え、どのように振る舞えばいいのかも教えたのです。教会は石を使った建築技術も持ち込みました。羊皮紙に絵や文字を書く技術も教えました。イングランドにおける日常生活の全てが変わったんです。キリスト教への改宗は、最初の千年紀における、英国で最大の変革だったと言ってもいいと思います。」

しかし、英国のキリスト教が独自の変革を始めだすと、直ぐにアイルランド系のキリスト教と対立するようになった。ノーサンバーランドのヘクサン修道院Hexham Abbeyはアイルランド人がイングランドにやって来て40年もしないうちに建てられた。
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地上に残っているものの多くは、後年に建てられたものだ。しかし、その下には、驚くべき宝物が残っている。
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ローマ時代の建物に使われていた石を再利用して造られているのだ。サクソンの英国が石を使う建築技術に欠けていたことを示している。しかし、同時に象徴的でもある。
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当時、ヨーロッパ中でも素晴らしい建築物だっただろう。しかし、使われている石はここから5Kmにあった砦を壊して持ってきたものだ。例えばこの石は入口の梁(はり)に使われていたものだ。
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ローマの石を建築に再利用しながら、ローマの宗教や法律を英国に再導入したのだ。

事実、ヘクサンの教会は、書き記された法律を英国にもたらした技能者instrumentによって建てられた。ヨークYorkのウィルフレッドだ。
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マンチェスター大学ライアン博士「彼はアングロ・サクソンにキリスト教を広めた。更には文化や、書物化された法律も持ち込んだ。」
ウィルフレッドはリンダスバーンという男を教育し、リンダスバーンはローマを初めて訪れるサクソン人僧侶になった。彼は、そこで教皇に面会もしている。中央集権化されたローマの教会はウィルフレッドの合理的な発想に強く共感を与えたようだ。
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彼は儀式や規則に関するあらゆる疑問への参照を求める時、ローマを向くことが多くなった。そしてヨークシャーにあったアイルランド系の修道院を彼が引き継ぐことになった時、ローマの慣習に従わないからとの理由で、それまでの修道院長を追放した。そうして、英国の司祭や貴族たちがアイルランドのやり方よりもローマの方法を選ぶようになるにつれ、緊張は徐々に高まっていった。

西暦663年、事態はとうとうバンバーBamburghにまで及ぶことになった。キリスト教の最も重要な祭りイースターEaster(復活祭)の日程について議論されることになったのだ。
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ノースアンブリア王国の王は、かつて幽閉され、アイルランドの祭司と共にキリスト教を学んだことがある島で過ごしていた。彼の妻である女王はケントの生まれで、そこはローマの教えが普及していた。2つの伝統はイースターの時期に関して異なる考えを持っていた。知っているかもしれないが、当時、キリスト教徒はレントLent(禁断日)の間は性交が許されていなかった。
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イースターの日曜日に王が礼拝堂に来た時、彼は豪華な食事と、寝室で彼を待つ妻を期待していた。しかし、妻にとってのイースターは1週間後だった。イースター前の聖枝祭Palm Sundayだった彼女はサックロス(sackclothずた袋)を着ていて、次の一週間、結婚関係は問題外だったのだ。英国の歴史でこれが最後というわけではないのだが、マビーダの王のおかげで(?)危機が訪れることになった。

しかし、寝室の話より深刻な対立があった。アイルランド系の教会とローマの教会という2つの対立するキリスト教の権力闘争だ。

西暦664年、ヨークシャー海岸のウィトゥビー修道院はヨーロッパのキリスト教の分水嶺の様相を呈していた。
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イースター問題を決着するため、ノースアンブリアの王は“シノン(口論会?)”を招集した。シノンは、我々には難解な論理的な口論会のような不可解な印象を与える。しかし、今回はそうではなかった。トップ会談で京都会議とかG8会談のようなもので、大勢の人々から成る派遣団が参加していた。ローマ側はウィルフレッドで、田舎の少年だが、全てのキリスト教教会で同じキリスト教に統一することの重要性を信じていた。
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一方のアイルランド側はエイデンの後継者でリンダの修道院長コールマンだ。まずウィルフレッドが意見を述べたが、それは敵対的な口論会になることを予告していた。
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歴史家ビードによればウィルフレッドは言った「世界全体の考えに反対する僅かな人々は、ここにいるアイルランド人と頑固で固執的なピクト人だ。あなた方の父は聖人だった。しかし、彼らはアイルランドという辺境の地の人で、万人のためのキリスト教会が世界に広がる前の時代の人だ。」
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「かなり加熱した口論が行われたように感じますが、シノン(口論会?)では、いつもこのような表現をしていたのでしょうか?」
オックスフォード大学フット教授「アングロ・サクソン教会が作成した報告書の中でも最も暴力的なものでしょう。嵐が吹きまくるような、冷酷な乱暴な表現を多くの場面で採ったのでしょう。」
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「事実を反映しているのでしょうか。何か見返りがあったんでしょうか?」
「驚くほど沢山の見返りがありました。キリスト教の中心的な祭典であるイースターをいつ祝福するのかというのは、キリスト教の根幹でもあり、それはキリスト教の他の行事の日程にも重大な影響を与えます。アイオナとヨーロッパのどちらがキリスト教のこれからの主流になるかという重大な決定が行われた瞬間だと言えるでしょう。」

数日の審議の後、ノースアンブリアの王は彼の結論に達した。彼はローマの考えを採用することにしたのだ。
オックスフォード大学フット教授「彼はローマの教皇と緊密になることを決めたのです。教皇との書簡のやり取りも行っています。彼の決断は、今後永遠に、聖コルンバではなくローマ教会に従うというものでした。」
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「つまりローマはアイルランドよりも魅力的な連合対称だったということですね?」
「ローマ教会の信仰の仲間に入ることは英国の教会を西ヨーロパのキリスト教の王国の流れに乗せることでした。彼らの国は、時には英国がそう呼ばれるような“小さな島国”ではなく、ヨーロッパ大陸の一部を形成していたのです。イースターを大陸の日程と合わせることは、ヨーロッパの主流に合流するという決定だったのです。信仰の流れという意味においてですが。」
「コロンバに従ってきたアイルランド人の僧侶たちはどう思ったのでしょう?流れが全く逆転したわけですが。」
「大きな衝撃を受けました。これまで学んできた教えにも疑問を持ちはじめたのです。その結果、多くの僧侶は荷物を纏めてアイオナを去ることになりました。」
(mh:英国人のQueen’s Englishとでもいうのでしょうか。その上、フット教授(女性)は早口で、一体、何を仰っているのか、とても聞き取り辛く、主旨だけをご披露させて頂いています。悪しからず。)

私はアイオナに戻りながら、論争に負けた修道院長コールマンの旅の憂鬱を容易に想像することが出来る。
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アイオナに到着するまでに、彼は重大な結論に到達していた。彼は、政治的な後退に直面した今日の政治家が行うように、退任したのだ。ウィトゥビーでの“シノン(口論会?)”の結果、アイオナの教会の権威はかつてと同じではなくなった。私はその悲劇に、しかし、そのアイロニーによっても、打ちのめされている。アイルランド人はキリスト教の力を英国に持ち込んで来た。しかし、イギリス人はその力を使って彼らに対抗したのだ。

しかし、まだ最悪事態は訪れてはいなかった。

キリスト教使節の宣教の道であり、交易や思想が行きかっていた海は、今度は北からの侵略者を連れて来た。西暦700年代の後半、海賊が修道院を襲撃した。アイオナの修道院は何度も攻撃に会い、ある攻撃では院のほとんど全員とも言える68人の僧侶がこの海岸に連れ出されて切り殺された。
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それ以降、この地は“殉教者湾”と呼ばれるようになった。このような場面は英国とアイルランドで何度も起きた。アイルランドのキリスト教の偉大な時代は血なまぐさい終局を迎えてしまったのだ。
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"How The Celts Saved Britain" (part 2of2) Dark ages and the Celts - BBC 2009
https://www.youtube.com/watch?v=uIBkv7pU9Eo#t=1061.4635138

“ケルズの本The Book of Kells”
全680ページ(見開きにすると340ページ)で、Trinity College Dublinの電子本は次のURLで見ることが出来ます。
http://digitalcollections.tcd.ie/home/index.php?DRIS_ID=MS58_003v&#folder_id=14&pidtopage=MS58_130r&entry_point=1

アイオナ島Isle of Ionaは2x4Kmの小島です。
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(完)
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