Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

モンゴルの不思議(前篇)


今回はGenghis Khan. The Empire | Culture (チンギス・ハーン:帝国と文明)から、モンゴルに暮らす3つの民族を紹介します。
フィルムは5分割されていて、合計で45分程度ですが、映像を多くご紹介したいと思いますので、2回に分けてお送りします。

モンゴルの歴史についてはブログ「ステップの帝国の不思議」で匈奴(きょうど)と呼ばれる人々の墓の発掘をテーマにモンゴルの様子をご紹介しました。
a9901.png
(ステップの皇帝)
Wiki:ステップ(ロシア語степь stepʹ、ウクライナ語степ step)
中央アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味。

Wiki:匈奴(拼音: Xiōngnúションヌー)
紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

匈奴の居住中心はアルタイ山脈の東に広がるステップですが、今回のブログでは現在、モンゴルに暮らす民族にスポットを当てています。まずはモンゴルの地勢を確認しておきましょう。
a9902.png
Wiki:モンゴル国(英語;Mongolia、中国語;蒙古国)
人口:3百万人
面積:160万平方Km(日本:38万⇒4倍)
言語:モンゴル語(国民の95%が話す)
首都:ウランバートル(人口:130万人)
宗教:主にはチベット仏教。歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。カザフ民族(4%)はイスラム教
国旗:
a9903.png
Wiki:モンゴルの国旗
赤・青・赤の順で、左側の赤地にソヨンボという意匠を配した旗。ソヨンボ文字はかつてモンゴルで使われていた文字で、ソヨンボの意味には色々な説がある。それぞれの図形は上から、火・地球・水・太陽・月・陰陽をあらわしている。

モンゴル文字:ウイグル文字と同じ。
a9904.png
元来、文字は無かった。1204年にチンギス・ハーンがナイマン王国を攻略したとき、捕虜となったナイマンの宰相でウイグル人が伝えた。現在ではウイグル文字は教養として学ぶだけで、日常的にはロシア語と同じキリル文字が使われる。
a9905.png
民族:
 モンゴル系:モンゴル民族(ハルハ族)、ブリヤート民族、オイラト族
 チュルク系:カザフ民族、ツァータン
 ツングース系:エヴェンキ民族

Google Earth:南にゴビ砂漠(“礫の草原”)、東にアルタイ山脈(“金の山”)、北はシベリアでバイカル湖があります。
a9906.png

モンゴルと言えばチンギス・ハーン。チンギス・ハーンと言えばこれでしょう。
a9907.png
(成吉思汗、1162~1227年;享年65歳)
幅47cmx高さ59cmの絵で、いつ頃、どこで描かれ、今どこに所蔵されているかというとですね・・・
14世紀の中国は元の時代、シルクの布に描かれ、台北の故宮博物院が所蔵しています。

遠征中に病死したようです。
墓についてWikiに次の記事があります。
「チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば直ちに敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないよう家臣達に遺言したと言われている。」
「東西冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは土を掘ることを嫌う風習と民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が外国人に発掘されることからこれに不満を持つ人が多いという。」

ということで、埋葬地の比定は不完全なままですが、どうもこの一帯らしい、といわれているのがウランバートルの北東180Km辺りのブルカン・カルドゥン“仏陀の孤嶺”と呼ばれる地域です。
a9908.png
「大山ブルカン・カルドゥンと周辺の神聖な景観」で世界遺産登録されました。

モンゴル帝国の首都だったカラコルムKarakorum はウランバートルの西300Kmの平原にあります。一辺が約4百mの外壁で囲まれた正方形の領域内に、いくつかのお寺があります。
a9909.png
この一画はチベット仏教の修道院で、首都の王宮や街並みはこの近くにあったようです。王宮の屋根瓦ではないかと思われる緑や青の瓦の欠片が見つかっています。

チンギス・ハーンが死んで8年後の西暦1235年から1260年にかけ、カラコルムはモンゴル帝国の首都でしたが、第五代皇帝クビライ・ハーンは帝国の名を“元”と改め、首都を大都(だいと;現在の北京)に移しました。その後、カラコルムも避暑地などとして有名でしたが、中国に明王朝が誕生すると、追い出されたモンゴル族は北宋を打ち建て、カラコルムを首都としています。

さて、それではいよいよ「モンゴルの不思議(前篇)」の始まりです。

・・・・・・・・・・・・
800年前、ティムインTimuyin、又はチンギス・ハーン“宇宙の王”としてもっとよく知られている男は、これまでの人類の歴史の中で最も広大な帝国を創造した。
a9910.png
それは全て、彼がモンゴルの異なる遊牧民族を取りまとめ、一つの強力な20万人の軍隊を作った1190年に始まった。
a9911.png
彼の軍隊と、彼の疑うべくもない卓越した軍事的才能は、太平洋からヨーロッパの中心まで、北シベリアからインド、イラン、トルコまで広がる広大な領土を占領することを可能にした。
a9912.png
彼の軍は比較的小規模で、高度に統率され、見事に訓練され、革新的な戦闘技能、驚くべき機動力を持ち、1万の騎兵から成る“トウーマンtoumans”と呼ばれる師団で構成されていた。
a9913.png
モンゴルの大軍は草原で暮らし、彼らの戦術は度肝を抜く奇襲が特徴で、主力騎兵軍が仕掛ける前に、敵の側面や後方防衛を攻撃することだった。
a9914.png
ハーン王朝(注)の終わりと共に始まった一連の内戦が国に混乱をもたらすと、1578年まで、アルタン・ハーンAltan Khaanの指導の下で仏教が政府機能を果たすことになった。
a9915.png
(注:“ハーン”はモンゴル語で王/皇帝の意です。チンギス・ハーン(成吉思汗、1162~1227年;享年65歳)が打ち建てたハーン王朝は通常、モンゴル帝国と呼ばれます。チンギス・ハーンを初代皇帝とし、第40代リンダン・ハーン(~1634年)まで続きますが、第5代のクビライ・ハーンKublai Khan(~1294年)が死ぬと勢力は急速に弱まったようです。アルタン・ハーン(16世紀)の時代には、複数のハーンが覇権を競っています。アルタイの孫は第4代ダライラマです。)

その2世紀後、モンゴルは中国の統制下に入り、1924年にはソビエト連邦の設立と共に共産主義に変革され、連邦の衛星国家になった。
a9916.png
ロシア時代になると近代化と工業化が急速に進んだ。建物、橋、道路、鉄道、工場、学校などが造られ、遊牧民は、驚きながらも傍観していた。彼らの国は、たった1日で原始的な封建社会から20世紀の先進社会に変革されたかのようだった。
a9917.png

ウランバートルは新たに生まれた国の新しい世界的首都になった。
a9918.png
寒く、ソビエトの非人間的な都市計画の標準に従って設計された町だった。その雰囲気は、訪問者たちにシベリアの、失われた、隔離された都市に来た印象を与えた。
a9919.png
しかし、1989年のベルリンの壁崩壊と、これに続くソビエト連邦の分裂で、ロシア人は、やって来た時と同じ素早さで引き揚げ、モンゴルは1日にして完全に麻痺(まひ)し、政治的にも経済的にも崩壊した。それは今でも完璧には回復してはいない。
a9920.png
以来、都市は急速に劣化し、住民は最善を尽くして生き残ろうと苦闘している。
a9921.png
郊外の様子も劇的に変わった。毎日、数百の家族が貧困や飢えから逃れようとしてウランバートルにやって来る。
a9922.png
近年に造られた新しい住居地により、ウランバートルの面積は倍に膨らんだが、およそ40%の都市住民は今もまだ遊牧民の家“ゲルger”で暮らし続けている。
a9923.png

しかし、いかなる場合も、そして偉大な帝国、侵略、内戦、政治的社会的実験を経験してきたにも拘わらず、国の奥地の生活は、チンギス・ハーン時代以降ほとんど変っていない。
a9924.png
広大なシベリアのステップ(草原)では、冬は10ヶ月続き、遊牧民の暮しはほとんど祖先と同じだ。
a9925.png
馬は今も彼らの運搬手段で、牛を飼育し、狩りをして暮らし続けている。
a9926.png
このフィルムは3つの民族集団の物語だ。彼らは同じ地域に暮らしているが、異なる文化と伝統を持っている。
a9927.png

a9928.png
しかし、彼らは“チンギス・ハーンの後継ぎThe Heirs of Genghis Khan”という共通分母を持っている。
a9929.png

この男がたった今見つけたものは恐竜の骨だ。
a9930.png
インディアナ・ジョーンズの人物モデルで、1921年にゴビ砂漠で最初に恐竜の卵を発見したロイ・チャップマン・アンドリュース以来、この砂漠は科学者や古生物学者が憧れる研究室になっている。
a9931.png
彼らは、発掘の都度、多くの疑問に対する答えを見つけ続けている。例えば、恐竜は、少なくとも6億年前、雪崩や砂嵐の結果、ゴビ砂漠からいなくなったという。
a9932.png

a9933.png

a9934.png
最も重要な発見は1993年に行われた。ニューヨークの自然歴史博物館の資金支援を受けたアメリカとモンゴルの古生物学者の共同チームは、1百を超える恐竜の完全な骨や多くの化石を見つけた。
a9935.png
それらの幾つかは孵化(ふか)し、また幾つかは、まだ完全に胎児のままだった。

これらの発見の多くは今も欧米の主要な博物館で展示されているが、ウランバートルの自然歴史博物館は2億5千万年前に地上で暮らしていたこれらの動物をもっと見つけるためには見事な場所だ。
a9936.png

・・・・・・・・・・・・
ゴビは烈しい、乾燥した砂漠で、モンゴルの3分の1を覆っている。
a9937.png
所々では、絶え間なく吹き続く風に打たれている砂丘が横切っていて、ここを最初に横断したヨーロッパ人はイタリアの旅行家マルコ・ポーロで1275年だった。夏には50℃を越え、冬はマイナス40℃にまで下がるので、ゴビで生きていくのは厳しく、困難だ。
a9938.png
夏が到来すると、砂漠の遊牧民は、長く、寒い冬にゲルを保護するために使われるフェルトのキャンバス(画布)を作る羊毛を刈り取る。
a9939.png
また、夏は駱駝の糞を回収し保存する好い時期でもある。
a9940.png
これらの動物は、このような不毛の砂漠で人間が生存しようと思ったら不可欠だ。木が1本もない土地では、家畜の糞は暖房や調理で必要な唯一のエネルギー源だ。これなしでは暮らしていけないだろう。
a9941.png

a9942.png
しかし、毎年、夏の嵐が来ると、ゴビは短期間の小休止を住民にもたらす。
a9943.png
数週間、自然の奇跡が砂漠に戻り、辺りは一面、新鮮な緑の草の絨毯で覆われる。
a9944.png
水は再び砂丘の間を流れ、乾き切ってひび割れた大地によって貪欲に吸収され、ゴビは再び生き返る。
a9945.png
数日前まで単に石や塵だった大地が、思いつくすべての様々な緑で青々とした庭の様相を見せる。
a9946.png

a9947.png
コウノトリは北の涼しい土地に移動する途中、体力を取り戻すために立ち寄る。
a9948.png
グルヴァンサイカン・ヌルウ山脈は、野生の山羊やスカベンジャー(scavenger腐肉食動物(ハゲワシみたいな動物))だけが棲み着いている領域だが、アイベックスibexが餌を求めて高地から下りてくる。
a9949.png
可能なところならどこにでも草が生え、ゴビは厳しい、乾燥した砂漠から、信じられないような土地にほとんど超現実的と思える変化をする。
a9950.png
誰もが、この状態が続く限り、自然からの恵みを受けようと望み、ゴビを囲んでいる高地ステップから砂漠に人間や動物が沢山集まって来る。
a9951.png
人口の60%が牛を繁殖させて、3千5百万頭の牛を飼って生計を建てている遊牧民の国では、新鮮な牧草地は最も貴重な生活領域で、どの家族も最高の土地に自分の群れを連れていく。
a9952.png

a9953.png
しかし、ここでは相変わらず駱駝(らくだ)が王様だ。今のところ遊牧民にとって最も価値がある動物で、昔から商人や旅人たちに重宝がられている。
a9954.png
このような反芻(はんすう)動物にとっては、今はエネルギーを蓄える時期だ。体から立ち上がる瘤(こぶ)は、その証拠で、十分な食料を獲得したという間違い様がない印だ。もし働かなくてもよければ、彼らは水を飲まなくても、蓄えたものだけで10ヶ月は生きていける。体重は25%減るが危険な状態に陥ることは無い。何故なら、失う水分は体の組織からだけで、血液からの水分ではないため、心臓に余分な負担がかからないからだ。

80年以上の間、タンセンダリア(男の名)の家族は、2百頭の馬、8百頭の羊や山羊、2百頭の牛と共に、夏になるとこの土地にやって来る。
a9955.png
2年前に格段と厳しい冬があり、飼っていた牛の半分を失ったにもかかわらず、彼らは牛の繁殖者として豊かに暮らし続けている。タンセンダリアの家族は4つのゲルで成るキャンプで生活している。ゲルは伝統的なシェルターで遊牧民の生活の必要性に完璧に適合している。
a9956.png

安く、十分な広さで、組立や解体はとても素早く行える。輸送は容易で、頑丈で、夏は涼しく冬は暖かい。
a9957.png
ゲルはいつも入口を南に向けて建てられる。入り口は悪霊を払い除けるため、明るく塗られている。
a9958.png
内部には、暖房にも使われるストーブが中央に据え付けられ、周りにベッド、少ない家具、そして最も大切な釈迦寺(mh仏壇とは違うようです。)が配置される。
a9959.png
彼らの食糧が肉、特に羊の肉や、ミルクを基本としているのは言うまでもない。
a9960.png
ミルクからは少なくとも12種もの製品を作り出している。その中には雌馬の乳を発酵させたものから作る、夏の間だけの飲み物エアラグairagがある。
a9961.png
とても健康に良く、結核対策にもなる。そしてアルギargiは牛の乳を蒸留した酒で、何千年もの間、人々は作り続けている。
a9962.png
女たちがゲルの中で家事をしている間、男たちは、この遊牧民族が好む仕事のひとつの準備にかかる。春に生まれた仔馬の仕分けだ。
a9963.png
一族のリーダーのニンテン・パサラ(男の名)の指示に従いながら、乗り手たちは馬を寄せ集め、飼い馴らされていない仔馬たちを集団の中心に閉じ込めてから、棒を使って捕まえる。
a9964.png
モンゴル人は、決して馬に印を付けたり、名前を付けたりしない。色や、区別するための200もの言葉を使って識別するのだ。

彼等にとって馬は、移動や物を運ぶために使う単なる動物という以上のものだ。彼らは、キリストよりも4千年前から、馬を手懐(てなず)け始めていた。
a9965.png
小さな体で、繊維状の毛で、そして信じられない程反抗的で、しかし、体の大きさに似合わない力を持つこれらの馬はチンギス・ハーンがあんなにも強力な軍隊を作ることができた重要な要素だった。
a9966.png
歴史書によれば兵士たちは夜の進軍を続けながら、馬の上で眠ったという。食料に欠乏すると馬の血さえ飲んだ。
a9967.png


国の反対側の、シベリアとの国境に沿った、砂漠から遠く離れた、無限にステップが広がっている地方では、垂直な世界が立ち上がっていて、タイガ(taiga針葉樹林)によって支配されている。
a9968.png
タイガは、ロシア語で椴(タン;とどまつ)、カラマツ、白樺で構成された北方の森林のことで、強風や低温に適応している自然の森だ。
a9969.png
ここはモンゴルの最も人里離れた場所のひとつだ。道はなく、居住地は遊牧民が踏み均(なら)した小道だけで繋がっている。
a9970.png
夏の終わりには、山から溶けて流れ出た水が草原や谷の大半を埋め尽くし、牛を連れて移動することは極端に困難になる。

秋になったら、チンギス・ハーンの時代から、これらの地に暮らすダーハット族は、家畜の群れを高地からもう少し暮らしやすくなる地域に移す。
a9971.png
ダーハットは、より肥沃な土地や風が厳しくない場所を探して、1年に15回くらい移動することができる。
a9972.png
しかし、草が乏しくなる冬になると、家族ごとに分かれて、それぞれが食糧を探さねばならない。ロシアが去って以降、今も残っている唯一の筏(いかだ)ボートでは、全ての牛をサガン・ヌウル川を横切って運ぶことはできない。
a9973.png
しかし、ここでは時間は重要ではない。人々は、待っている間、雑談したりお茶を飲んだりする。もし、今日中に渡れなければ、明日、渡ればよい。
a9974.png
モンゴルの不思議:前篇完
Genghis Khan. The Empire | Culture - Planet Doc
https://www.youtube.com/watch?v=VgW1EWhC5H8&list=PL_xnDE04X2MefNJowWSK7lrjD8n-fx5g9&index=19
(続く)

スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する