Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

マルコ・ポーロの不思議


英語・イタリア語でMarco Polo、中国語では马可·波罗、馬可·孛羅などと表記される、イタリア・ベニスの商人です。1257年に生まれ、1324年に亡くなりました。17歳の時、父と叔父に連れられて中国への旅に出て、戻ったのは24年後でした。その後、結婚し、幸せな一生を終えました。

実は、マルコが子供の時、父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロは2人で中国を訪れ、フビライ・ハンに会っています。“宗教や文明などを中国で広めたいので、100人のキリスト僧侶を連れてきてほしい”とのフビライの要請を受けてイタリアに戻った兄弟は、わずかに2人の僧侶と、17歳になっていたマルコを連れて再び中国を目指しました。僧侶たちは旅の厳しさに恐れおののき、途中で逃げ戻りますが、マルコは父や叔父と共に中国まで旅をして、フビライ・ハンにも会い、20年程中国で暮した後、父や叔父と共にベネチアに戻りました。

往路は陸のシルクロードを辿り、フビライの都に着くまで数年かかったようです。
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帰路は海を辿り、現在のイランからは陸路でベニスに戻っています。
上の地図でLanzhouは蘭州、Beijingは北京、Chengduは成都。Hangchow(?)は杭州(Hangzhou)でしょうか。台湾の隣だとすれば泉州かも知れません。

Youtubeフィルムではマルコは元王朝の首都“キサナドゥ”に行ったことになっています。mhの世代の方なら“キサナドゥの伝説”という曲を聞いたことがあるでしょう。御参考にURLを上げておきますが、mhの趣味の曲ではありません。
キサナドゥの伝説 ザ・ジャガーズ
https://www.youtube.com/watch?v=G_FK8fktKtY

中国元王朝の夏の都だった上都(Shangduシャンドゥ)をイギリスの詩人がXanadu(ザナドゥ/キサナドゥ)と呼んで以来、桃源郷(ユートピア)の代名詞になった所で、北京の北250Kmに廃墟が残っています。一辺が1Kmの外壁の中の、一辺が4百mくらいの城壁に囲まれた所が王宮かと思いますが、フビライはゲルで暮らしていたかも知れません。
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夏(7月)のキサナドゥ風景
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日本人なら、マルコ・ポーロと聞いて直ぐ思いつくのは「東方見聞録」でしょう。この本は、ヨーロッパの人々に、アジアに対する憧れを植え付けたようです。本の中で“黄金の国ジパング”も紹介されていますが、彼自身が日本を訪れたことはありません。実は、彼は中国にすら行っていないという意見もあるようです。根拠は、有名な万里の長城について何の記事もないとか、マルコの名が記された記録が中国で見つかっていないとか、記述に多くの矛盾がある、などです。しかし、マルコの中国への旅は間違いないというのが大方の見方です。中国の王宮内部や、町の記述など、見た者、行った者でないと書けない内容があるというのがその理由です。中国の宝物をベネチアに持ち帰り、それを元手に商人として成功したとも言われています。

旅行記の題名についてWikiに次の記述があります。
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(Delle meravigliose cose del mondo, 1496:世界で素晴らしい事)
「原題は不明である。日本および韓国においては一般的に『東方見聞録』という名で知られているが、他国では『世界の記述』("La Description du Monde"、"Le Devisement du monde")、『驚異の書』("Livre des Merveilles")などとも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロがアジアで見たものの数をいつも「100万」と表現したからとも、100万の嘘が書かれているからとも、マルコ・ポーロの姓"Emilione"に由来するともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』("The Travels of Marco Polo"、"Los viajes de Marco Polo"、"馬可・波羅游記")の名でも知られる。」

旅行記の内容に“嘘”と思われる記述があっても不思議はありません。ご承知かもしれませんが、この旅行記は、マルコがベニスに戻ってから、記憶だけを頼りに書かれたんですね。しかも、書いた人物はマルコ本人じゃあなくて恋愛小説家ルスティケロ・ダ・ピサという男だったんです。小説家が話を面白おかしく脚色した部分も多いとWikiにもあります。

しかし~
マルコの旅はmhに浪漫への憧(あこが)れを呼び戻してくれました!暖かくなったら、是非、どこかに出かけたいと思います。

それではYoutube「Biography: Marco Poloマルコ・ポーロ伝」をご紹介しましょう。
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イタリアのベニス。ヨーロパで最もロマンティックな都市の一つだ。
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7百年前、ここで生まれた男が何年もの外国への旅から帰った時と全く変わっていない。男の名はマルコ・ポーロ。
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ベニスとジェノバの闘いが起きなかったら、マルコの旅について知られることは無かったかも知れない。1298年、44歳の時、マルコは捕えられ、ルスティケロという名の恋愛小説家と共に投獄された。
監獄の中でマルコ・ポーロが冒険談を語ると、それを記録したルスティケロが、驚き、疑念をもっただろうことは誰でも想像できるだろう。
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マルコの話はルスティケロをもってしても、でっち上げるのが難しい程の奇想天外なものだった。マルコは“イタリアに戻るまで大王フビライ・ハンの私的な補佐役として凡そ20年を中国で過ごした”と言うのだ!
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当時、中国はヨーロッパから最も離れた神秘的な場所だった。マルコの話を聞いたルスティケロは本にしようと考えて書き記し始めた。
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小説家ブレイン「マルコが本を遺すことになったのは、ゴーストライターと一緒に収監されていたからだ。歴史的に見れば、幸運な収監だと言えるだろう。」
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本は当初“世界の記述”と呼ばれ、その後“マルコ・ポーロの旅”、さらには広く“イル・ミリオーネIl Milione”とも呼ばれていた。
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その内容は、あまりに幻想的で、人々は作り話だろうと考えていた。
マルコの旅より「王宮の外では4万人を超える招待客が宴会に招待されていた。その日、偉大なハン(王)は10万頭を超える見事な馬を贈り物として受け取ったのだ。」
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誰もがマルコの説明を文字通り受け取り、何の疑問も持たなかったのだろうか?当時、ヨーロッパで最も豊かで大きな都市のベニスがたった10万人だったのに、中国では何百万人もの人々が豊かに暮らしていたというのは本当に事実だろうか?フビライ・ハンなどという野蛮人が、そんなにも魅力的な、文明化された暮しをしているなどということがあるのだろうか?
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しかし、当時、マルコの見事な記録は信じられ、西洋と東洋の関係の将来に影響を与えていたかも知れない。マルコについてほとんど明らかでなく、また初期の本が残されていないにも拘わらず、旅行や冒険の話に関して彼に比類する男はいない。

Marco Polo: Journey to the East :東方への旅
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13世紀、マルコ・ポーロが生まれた時、世界は大きな混乱と好機の中にあった。神聖なローマ帝国では2つの都市が経済的、政治的な富を支配していた。
西のイタリアではベニス。
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東ではコンスタンティノープルで、現在のトルコのイスタンブールだ。
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もし文盲の戦士チンギス・ハンの興隆がなかったなら、教会の影響はさらに東まで広がっていただろう。ハンの異教徒タタール軍は、数年でペルシャ、中央アジア、ロシア大半、さらには最も価値がある中国を征服してしまっていた。チンギスと彼の後継者たちは、世界の歴史の中でも最大の帝国の設立を宣言した。
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1254年。イタリアのベニスで、マルコ・ポーロは裕福な商人の家庭に生まれた。彼は商人になるよう期待されていた。
歴史学者ニコラ博士「ベニスの商人としての典型的な教育は14,15歳くらいまで続いた。その間、読み書きや、算術と呼ばれていた代数や、さらには簿記など、商取引に必要な基本的な知識を彼は学んでいたはずだ。」
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マルコの母は、彼が少年の時に死んだ。父ニッコローは仕事で家を離れていた。父の長年の不在は中国への壮大な旅が理由だった。中国で、ニッコローと彼の弟マッフェーオはフビライ・ハンに歓待されていたのだ。恐らく、そのような栄誉を与えられたヨーロッパの商人は彼らが最初だろう。フビライは彼らに妙な命令を与えて祖国に送り返した。
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斬新な王フビライはキリスト教を更に知りたいと望んでいて、ポーロ兄弟にエルサレムの神聖な墓地の油と共に、1百人の僧侶を連れ戻るよう指示したのだ。ベニスに戻った兄弟は、1274年、フビライの要求を満たすため、再び中国に戻る準備を整えた。彼らは17歳のマルコも一緒に連れていくことにした。
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少なくとも数年の旅になるはずだった。しかし、ベニスを離れる時、結局23年間もの不在になることを彼らは想像していただろうか?
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作家ティモシー「当時の商人の考え方は、今とは全く異なっていた。ベニス商人の時間概念では、他国で何年も過ごすことは当然のことだった。」
命を賭けて再び旅をする兄弟や若いマルコに対し、偉大はフビライはどんな報奨を与えることが出来たのだろう?
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フビライはポーロ兄弟にモンゴル帝国内での通行の安全を保証する特別な通行証を発行していた。
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しかし、どんな通行証を持っていようとも旅は危険に満ちたものだった。
歴史学者「都市ベニスの生き残りは住民の事業にかかっていたので、マルコたちの旅は、愛国的な面も持っていたが、ヨーロッパで拡大しつつあった東洋の製品に対する需要に対応したものでもあった。その結果得られる利益は魅力的な額だったのだ。」
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つまり、愛国主義と利益の2つのため、ポーロ兄弟はエルサレムに向けて出発し、神聖な墓から油を手に入れた。僧侶については、集められたのは1百人ではなく、たった2人だった。キャラバンの旅の厳しさから、この僧侶たちは直ぐに旅を放棄してしまった。しかし、マルコにとっては、偉大な旅が始まることになったのだ。
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中東の風景、喧噪、臭いは、それまでマルコが想像したことがなかったものだった。全ての新鮮な体験はティーンエージャーのマルコに信じられない程の印象を与えた。
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マルコの旅より「この一帯よりも遠い所まで旅をしたいと思うなら、誰でも、最低7日の間、果てしない平地をたどらねばならない。しかしまた、時々、小さな椰子の茂みを駱駝で通り抜けるのは旅する商人にとっては大きな楽しみでもあった。」
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歴史学者「マルコ・ポーロはとても頭がよく、観察力に優れていた。彼が記憶していた様々な体験の詳細は本に記され、確認され、その正確さは驚くべきものだ。それは彼が普通の人間ではなく、卓越した知能をもっていた証拠だ。彼の聡明さは疑う余地がない。」

ポーロ兄弟たちの最初の問題は、ペルシャのホルムズHormuzの港に到着することだった。そこで北京に向かう船に乗るつもりだった。
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しかし、彼らは商人であって旅人ではない。いつものように商いをしながら旅を続けていた。キャラバンを組むには大金が必要だ。競争相手の商人たちは無法者の集団のようなものだった。
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作家「未知の土地に入り込んだら、ガタピシャ音を立てる台車を引き連れていると、警備兵たちに呼び止められ、交渉しなければならない。そこで、駱駝などの動物に荷物を載せ換える必要がでてくる。そうなると、少ない量で、価値のある品物だけを運ばざるを得ない。ポーロ兄弟たちが運んだ、最も価値がある品物は宝石類だった。服の中に隠して持って行くことも出来た。」
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マルコの旅より「ガズヴィーンを出発すると、8日間、砂漠の旅が続き、全く水を見ることは無い。果物も、どんな種類の樹木も見当たらない。水が見つかったとしてもまずくて飲めるものではない。」
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歴史学者「キャラバンがしなければならないことと言えば、駱駝に沢山の水を飲ませることだった。人が水不足になったら、駱駝から水を取り出して、自分たちの喉を潤すのだ。」
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本の中で、マルコは、地形や人々の習慣だけではなく、伝え聞いた物語も記していた。それらの多くはあまりに異国的でかつ信じられない内容だったため、マルコの同時代の人々は本の内容のほとんどを作り話だろうと考えた。イランの北部の山岳地帯に住む野蛮な無法者の老人が、山の砦で一帯を統治していたという話は、本の中に書かれていた信じられない話の一つだ。
小説家「その男が兵士を集めようと考えると、まず兵士になれそうな男たちを彼の土地の谷間に掴まえて連れてきて、そこの美しい庭で美しい女たちと楽しいピクニックを開き、その後で、彼らを砦に連れて行き、もしお前たちが私に従うならいつだって、今回のように楽園に連れて行ってやるといって、彼らを政治的な殺人者として使った。彼らはハシイシと呼ばれていたという。このハシイシからアサシンassassin(刺客)という言葉が生まれることになった。つまり、マルコの話には強い信憑性(しんぴょうせい)があると考えていい。」
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最初の数千Kmの旅の間、マルコは、このような恐れや不安について何も記録に残していない。これから訪れる中国の魅力的な文明を聞かされていた彼は、どんな困難にも情熱を削がれることはなかった。しかし、ポーロ兄弟たちがホルムズの港に到着すると、彼らを乗せて中国の港に行ける船が見つからなかった。そこで、海ではなく陸路を採ることにした。
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そして結局、マルコは中央アジアや中国の、異国情緒あふれ、息をのむような繁栄や地形や習慣を書き記す最初の西洋人になる。
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ジェノバにおける監獄の湿った部屋の中で、マルコはルスティケロにフビライ・ハンに会うまでの3年間の思い出話をしている。その時が、マルコの偉大な旅が始まった時でもあった。
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マルコが刑務所でルスティケロに話したことは、20年も昔に起きたことを記憶だけに頼ったものだった。
マルコの旅より「そこは寒い土地だった。山々の頂では大気はとても澄んで爽やかで、そこに暮らしている人々は風邪にかかったと思われる人も直ぐに回復しているようだった。マルコ・ポーロも丘を登りながら1年ほどこの国で病に罹ったが、回復することができた。」
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作家「マルコはアフガニスタンのどこかで病気になったようだ。それを治すため、彼は山に登らなければならなかった。そこにはパミール高原や中央アジアがある。下ればゴビ砂漠だ。そこでは旅人を死の国や砂嵐や高温や冷気や渇きに引っ張り込む化け物が彷徨(さまよ)っているという言い伝えがある。長い、厳しい旅だったはずだ。そしてとうとう彼らは中国に到達した。」
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中国は、チンギス・ハンによって征服されるまで何世紀もの間、よそ者に対して完全に閉ざされていた。
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13世紀になると、後継者たちは6千万人が暮らす土地によそ者を招待するようになった。ベニスを離れてほぼ4年。マルコたちはとうとう、世界最大の帝国の支配者フビライ・ハンの王宮に入ることになった。彼らは、エルサレムから運んできた神聖な油をハンに贈呈した。
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マルコの旅より「いよいよ、偉大なハンとの出会い、統治者としての彼の重要な業績について語る場面になった。」
歴史学者「私が思うにフビライ・ハンは13世紀における偉大な人物だ。彼は単なる征服者ではなかった。祖父のチンギス・ハンのように乱暴に領土を奪い取るのではなく、文明的な発想、高い教養を持ち、異なる多様な宗教に寛容で、卓越した人物だった。」

マルコは、チャンドゥ、またはザナドゥとして知られる夏の王宮で初めてフビライ・ハンに会った。
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そこは中国がいかに進歩した国かを、マルコの説明から初めてヨーロッパ人が知ることになった場所だろう。
マルコの旅より「大理石の巨大な王宮では、内部の大きな部屋や小さな部屋の全ては金箔で輝いていて、王宮の周辺を取り囲む城壁は25Kmもあった。泉や小川は豊富な水であふれ、様々な草が庭に植えられていた。その庭で、偉大なハンは鷹狩用の鷹の餌となる、あらゆる種類の鹿類を飼っていた。」
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ゴーストライターだったルスティケロが、ジェノバの牢獄で聞いたマルコの話のどこまでを信用していたか、我々は分かっていないが、兎に角、彼は書き記した。そして次の記述こそが、彼にとってはマルコの話の信頼性を判断する究極の試験だった。
マルコの旅より「マルコが王宮に長く滞在するようになる前に、彼は4つの言語を習得していた。彼の賢さに気付いたハンは、到着するまでに6ヶ月を要したというカリジョンという名の国への使者として彼を派遣した。」
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21歳になったばかりで、以降17年の間、フビライ・ハンの特使として奉公していたというマルコの話でルスティケロはマルコを信用することになった。マルコはフビライの目となり耳となり、チベット、ビルマ、インド、さらにはジャワまで出かけていった。
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作家「マルコにはそのような資質があったのだ。結局の所、彼は外国人で、とても優れた観察者で、商才もあった。フビライ・ハンは自分に更なる富をもたらしてくれるだろう、商業的に価値のある情報を欲していたのだ。」
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中国におけるマルコの冒険の記録は、今日の歴史学者にとっては価値がある。しかし、何人かの懐疑主義者は彼が中国に到達したのかどうかについて疑問を持っている。マルコの本を別にすれば、中国ばかりではなくヨーロッパにおいてさえも、彼の旅に関係する証拠は見つかっていない。
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歴史学者「マルコが本当に中国に行ったのかについては、今も続いているいくつかの論争がある。モンゴルが中国の宋王朝にしかけた戦いで、彼や父、叔父は中国では重要人物だったと言っている。残念ながら、その戦いはマルコが中国に到着する3年前に起きた。しかし、このような間違いや矛盾にも拘わらず、他の沢山の点から、私はマルコが中国に行ったことについて微塵も疑っていない。」
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マルコの時代、フビライ・ハンの広い帝国を理解することは、西洋人にとっては不可能とは言わないまでも難しいことだった。
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偉大なハンがどのように情報を集めたのか、軍司令官たちをどのように統括していたのか、何百万もの出来事が何百万平方Kmもの帝国の中でどのように管理されていたのか、を詳細に解説しているのは、マルコがそれを知っていた証拠といえるだろう。
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マルコの旅より「ポストは40Kmから50Kmの間隔で地方に続く全ての重要路に設けられていた。そして各々のポストには3百から4百頭の馬がすぐにでも出発できるよう待機して、近くには豪華なゲルが建てられていたのを通信使は見ている。」
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マルコは進歩的な通信システムについて5ページを使って説明していた。1日400Kmを移動し、帝国中に1万か所ものポストがあり、昼夜にかかわらず稼働していた。このシステムこそが帝国を管理するハンの重要な手段だったのだ。

マルコの本の記述の多くは伝聞だが、間違いは少ない。ハンの情報通路の信憑性を疑う歴史家はいない。
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しかし、マルコ自身についてはどうだったのだろう?この点になると歴史家は、彼の風貌について語る多くのものを持ち合わせていない。心理的な描写となるとそれ以下だ。彼の存命中に肖像画が描かれていたとしても、今は何も残っていない。彼の本の中にも、彼の考えを示すものは少ない。その点で、この本は本来のジャーナリズムに基づいた最初の偉大な作品の一つと言えるかも知れない。同時に、係(かかわ)ったことや自分自身に対して正直で、肉と血を持つ生身(なまみ)の勇敢な若者の作品でもある。
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もしマルコが初めて報告した東洋の習慣が13世紀のベニス市民の不信を買っていたとしても、彼の説明は、先例がない程正確だった。
マルコの旅より「遠く離れた地からやって来た人がこの国を通過する時、地元の婦人たちは娘たちを20から40ある宿泊場所に連れてきて、そこにいる旅行者に娘と一緒に寝てほしいと依頼する。」
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作家「マルコが言っている内容は、旅行者たちは特に女たちにとってある意味で素晴らしかったということだ。女たちは広く男を体験できたということだろう。この話は別の伝統でも証明されている。こういった慣習は中国の新疆ウイグルで、今でも部分的に生き残っている。17歳から24歳くらいの若者が訪れるとしたら、この国は素晴らしい所だということをマルコは示しているのだろう。彼が訪れた時は、そんな年代だったから、楽しい場所だと思ったに違いない。」
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時がたつにつれ、マルコは異国情緒あふれた東洋への関心を深めていった。彼の鋭い観察も衰えることは無かった。驚くべきは、彼が、全てのことを興味深く、重要だと見なしていたことだ。
マルコの旅より「もっと語って聞かせよう。その都市の南には周囲50Kmの池があり、周りを大きな、これ以上はないと思われる豪華な建築の王宮や大邸宅が囲んでいた。池には娯楽を求める人々を載せた、終わりの無い艀(はしけ)の行列が続いていた。この町の人々にとっては、これらは彼らの技術や交易の賜物以外のものではなく、一日のある時期を家族の女性たちと、または雇った女性たちと池の周りで楽しんでいた。」
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歴史学者「マルコ・ポーロは人口3百万人の都市杭州に完全に魅せられていた。杭州では運河や湖や公園やレストランが見事に配置され、当時、ベニスや他のヨーロッパのどんな都市よりも洗練された町だった。」
現在の杭州は工業中心だ。ここが、マルコが長々と褒(ほ)めちぎった理想的な大都市だったとは思えない。
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しかし、マルコが初めて目にし、ルスティケロが書き記した内容に誇張や装飾があると非難される時、それらは、いつもその場所の本質を捕えていた。学者たちは杭州がかつては文明化された都市の生きたモデルであるというマルコの評価に同意している。
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作家「マルコ・ポーロは、現代なら人類学者か民族学者の旅行者だと考えられると私は思う。彼は人々の生活様式や習慣にとても関心を持っていた。商人として土地の特徴が現れる生産物に注意を配りながらも、社会的な習慣や、どんなものを食べているのか、どんな建物に暮らしているのかなど、そこで暮らす人々をとてもよく観察していた。彼の目には、それらがとても興味深く映っていたのだ。」
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マルコは個人的な評論をほとんど説明していない。東南アジアの人食い人種さえも人道的な非難を受けていないし、その儀式の内容も中国には報告されていない。
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マルコの旅より「彼らの他の習慣としては、もし、優れた礼儀正しい男に出会うと、自分たちの家に招待し、夜になると彼を殺した。それは金品を奪うためではない。その客人が持っていた好い魂や卓越した優美を自分たちの家の中に残そうと考えてのことだ。」
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作家「これは民族学者には知られている習慣の一つで、とても小さな集団で行われていた。フビライ・ハンが、後にこの慣習を禁止したという事実が伝えられている。」

マルコは観察したこれらの残虐な習慣について個人的な評論を加えていないが、東洋の野生動物王国に関すること細かな解説は、間違いなく直接的な接触によって導かれたものだ。
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植物や草木などの解説も事実に基づいたものだった。彼の本で伝えられる多くの情報は、西洋人の読者にとって物珍しく、かつ驚くべきもので、それを消化し確認するのには数世紀が必要だった。

しかし、イタリアを離れておよそ20年すると、マルコもポーロ兄弟も望郷の念に駆られ、中国を離れたいとの希望を関係者に訴えるようになった。
歴史学者「彼らは元王朝の特使として重要な仕事や特別な任務に係わっていた。外国との仲介やラテン語とかその他の言語の書類を翻訳してハンを助けていた。ハンは彼らを重宝にし、中国から離れさせたくなかった。」
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偉大な王ハンがどんなに文化的な考えの男であったとしても、彼に強要することは誰も出来なかった。

マルコは30代の後半だったが、依然として独身のままだった。彼は大した憂いも無く楽しい旅を続けていただろう。封印された金属の書類入れの中にフビライからの信任状を入れ、モンゴル兵も引き連れていた彼は、どんな被害も受けなかったはずだ。その上、彼は中国で初めて発明され、帝国のどこでも通用する紙幣を渡されていた。
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マルコのこのような贅沢な旅は、今日の旅行者の誰もが羨(うらや)むはずだ。

彼は万里の長城を訪れる機会を持つことは無かった。それはフビライの祖先たちを中国から遠ざけていた城壁だった。しかし、彼は遠くインドまで訪れている。
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マルコの旅より「彼らの中にはヨギ(Yogi行者)と呼ばれる人々がいた。ヨギは他の人々よりも長生きで、150歳から200歳くらいまで生きた。年をとっても体は丈夫で、どんな所にでも歩いて行き来できた。偉大な禁欲と健康的なものだけを食べるという極端な節食のおかげだ。」

とうとうマルコはフビライ・ハンに呼び出された。ハンはマルコ一家が彼に奉仕してくれるよう要求した。もし重要な荷物に付き添ってくれるのならイタリアに戻るチャンスを与えると提案したのだ。彼らの帰国の旅は2年を要した。中国のザナドゥを訪れる旅と比べると半分の期間だ。しかし、その旅は大きな危険を伴うものになった。不運や災難に満ち、マルコ・ポーロしか生き残らなかったのではないかと思われるほどだった。
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それは1292年のことだった。フビライに面会し、仕えるようになって既に17年経っていた。マルコ一家はコカ・チン姫に付き添ってペルシャまで行ってほしいとの要請を受けた。そこで彼女はモンゴル人の統治者と結婚することになっていたのだ。
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ベニスに戻る唯一の認められた機会だった。

マルコ一家と中国との特殊な歴史的な関係は、いよいよ終わりを迎えることになった。
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マルコは、船旅を提案した。その方が早く戻れる。中国の羅針盤はヨーロッパのものよりも進歩していたので良い印象を持っていたのだ。彼らは、600人の同行者と100人の船乗りと共に中国の海岸を離れた。
作家「マルコ・ポーロにしてみると、行きは陸路で、帰路は海路だ。つまり完璧な組み合わせで、後世の歴史家にとっても、とても幸運だっただろう。」
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しかし、この船旅は、病やひどい嵐などで亡くなった数百人には幸運とは言えない。姫と何人かの側近とポーロ一家は無事にホルムズに到着した。生き残ったのは彼らを含め、たった18人だった。
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マルコはこの船旅の恐ろしさについて、簡単に説明しているだけだ。その後、トルコで受けた因縁の逸話についても何も記述に残さなかった。実はトルコでは軍の事務官が、マルコたちが持ち運んできた富の4分の3を取り上げてしまったのだ。
歴史学者「マルコたちが17年をかけて中国で蓄えた富のほとんどが失われてしまった。我々がそれを知っているのは、ベニスで見つかった行政が書き記した書類からだ。」

マルコとルスティケロだけが知っている理由から、マルコの旅の話は彼がベニスに戻る前で終わっている。
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マルコの思いや、23年後に故郷に戻ったマルコが将来に何を期待していたかは、読者の想像に委ねられた。

失われたものを補うのは楽ではなかった。
歴史学者「マルコの家族の人々ですら、中国からもどった3人を受け入れるのは大仕事だった。3人は、ベニスの言葉を喋ることも困難だった。イタリア語よりもペルシャ語やモンゴル語の方が得意になっていたのだ。衣服は東洋のもので、顔つきもすっかり変わっていた。彼らも、すっかり変わってしまっていたので、ベニスの生活を受け入れるのに苦労したはずだ。」
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マルコは40歳を過ぎたばかりで、まだ先のある男だった。彼は何をするつもりだったのだろう?

彼を待ち受けていた環境は、彼を更なる冒険に引き込むことになった。ベニスに戻って直ぐ、彼はベニスの軍船の上にいた。彼が市民としての商人だったのか、兵士だったのかは歴史家も判ってはいない。
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彼は敵ジェノバに捕えられ、1年間、投獄された。

彼のゴーストライターが書き残した旅の話の中で、マルコは何年も生き続けた。本の中に現れてくる人々や場所は、ヨーロッパ人が想像することすら困難なものだった。そして、あり得ないことだが、彼はこの本が歴史の中でどれほど価値があるか考えたこともなかった。冒険に満ちた人生を形に残せただけで十分満足していたのだろう。

1年の投獄生活の間に本が完成し、マルコとルスティケロが釈放されると、本の手書きのコピーが世間に広まった。
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“マルコ・ポーロの旅”は人気を博し、フランス語、イタリア語、ラテン語でも出版された。活版印刷技術が現れるのは百年以上も先の時代だった。しかし、マルコの“千一夜物語”は特にベニスでは人々の間で話題に上り、彼はセレブの仲間入りをした。彼の語った物語はあまりに面白かったので、事実ではなく、作り話に違いないと多くの人々は考えていた。“イル・ミリオーネ(百万)”はある出版元がつけた本の名前だが、読者たちが内容の信憑性に関して受けた印象を反映したものだ。
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作家「マルコが中国について語る時はいつでも、数字がとても巨大だった。そこで人々は、この男は数千とか数百万とか、いつも大袈裟な話をすると思っていた。勿論、この傾向は中国では今も変わらない。TVの台数にしても、その他の何であろうとも、中国の人々は巨大な数を口にする。」

当時の信頼できる情報源によれば、マルコは結婚し、3人の娘を育て、事業を続けた。彼の本の内容に対する疑念に対しては愚痴をこぼすこともなかった。
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作家「本を読んでみれば判るが、物事を純粋に見る人物のセンスが感じられる。そこに座ってビールを飲みかわしながら20年間をどのように過ごしたのかについて静かに語り合っているのがマルコだという雰囲気がある。」
監獄を出て、マルコは25年の間、生きた。その間、彼の偉業に対する非難も尊敬も彼に訪れることは無かった。しかし、それが訪れるであろうことは間違いない。今日、多くの人々は、彼が世界の歴史に影響を与えたと考えている。

ほんの7百年前、誰も船で世界を一周したことがなく、地球上の陸地や海を表わす地図すらなかったということを、宇宙時代の現在に生きる我々が想像することは難しい。
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作家「マルコの本は情報を提供したことで大きな功績を生んだと思う。謎と好奇心の源になり、後世の人々は、彼が記録に残した場所が本当に存在しているのか調べてみようと思って旅立っていった。マルコ・ポーロは情報の金鉱のようなもので、以降、何世紀もの間、この金鉱は発掘され続けた。」

今日のベニスで、マルコ・ポーロに関する記念碑のようなものを見つけることはできない。
彼はこの建物で暮らし、死んでいったと考えられているが、誰も確信を持ってはいない。
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彼の家族は遺体を聖ロレンゾ教会に埋葬したが、今から2百年前、掘り起こされ、どこかに移されてしまった。それがどこかも分かっていない。このような状態で、マルコが遺したものは重要だったと言えるのだろうか?

マルコの死から2世紀後、クリストファー・コロンブスはスペインのイザベラ女王の前で東洋への大胆な遠征に対して資金援助してくれるよう訴えた。
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彼は、東ではなく西に向かって出航し、大西洋を横断して東洋に行くと言ったのだ。誰も思いつかない発想だった。
歴史学者「クリストファー・コロンブスはマルコ・ポーロの本のコピーを持っていた。それは1485年の終わり頃に印刷されたもので、幸いにも、代々伝えられ、今でも残っている。そこにはコロンブスが手書きしたメモが残されている。」
mh:Wikiで見つけたコロンブスのメモが残る本です。
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マルコが残した東洋の富に関する手記はコロンブスの想像力を刺激したのだ。アジアを求めて西に出向したコロンブスがアジアに到達できず、代わりにアメリカを発見したのは誰もが知る所だ。
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マルコの本が想像力を掻き立てることがなければ、アメリカの発見という偶然は、もっと後の時代に別の理由によって行われたに違いないと多くの専門家は考えている。

コロンブスという名前は探検や航海の天才と同義語になった。しかし、マルコ・ポーロの名前が同じように語られることは無い。
作家「コロンブスとマルコの違いは、とても印象的だ。コロンブスは自分の国の旗を立てるために出かけていった。マルコはそのようなことに関心を持っていなかった。ベニスの旗のことなんか考えたことすらなかっただろう。コロンブスは、行く先々で、土地に新しい名前を付けた。一方、マルコは、原住民がその場所をどう呼んでいたのかに注意を払い、それをそのまま使った。つまりマルコの辿った道を誰でも同じように辿ることができるのだ。コロンブスは原住民を野蛮人だと見下していた。しかし、マルコの説明によれば、モンゴル帝国は、平穏な旅や見事に運営されている都市や清潔さが確保された輝かしい所だった。」
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パスタやピザや火薬を中国から持ち帰ったのがマルコだと主張するいくつかの神話があるが、これは全く根拠のないものだ。学者たちは、このような間違った概念が彼の偉業を小さく見せてしまったと考えている。
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歴史学者「中国では、フビライ・ハンは官僚的だったと考えられているが、マルコ・ポーロは、観察力や知力や聡明の男だと言っている。そうでなければ、マルコの本で書かれているようなことは起きるはずはない。彼の本は、東アジアと接触したいというヨーロッパ人の欲望に大きな影響を及ぼすとともに、東アジアがどんな場所なのかについて初めてヨーロッパに示すものだった。」

1324年、67歳で、マルコは自宅で死んだ。彼は商人として多くの富を得た。しかし、当時の最も人気がある本の作者として得たものは何もない。
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本は別にして、彼の遺書は多分、今に残る唯一の書類だろう。
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その中で彼は豊富な富を彼の家族に分け与え、他の誰もが語ったことがない知識を遺した。
作家「遺書には、ささやかだがすばらしいことが記されている。彼は奴隷を解放すると言っている。タタール人で、モンゴルから連れて来た男だ。恐らくマルコの召使いで、旅先で見つけ、ベニスまで連れて来たのだ。更に素晴らしい話は、彼が死に臨むベッドの上で言い残した言葉だ。ベッドの周りに集まって来た人々が“あの話は全て嘘なんでしょ?”と言うと、マルコはこう言ったという。“私は私が見た半分も話していないよ。”」
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Biography: Marco Polo
https://www.youtube.com/watch?v=gTUMT3EZfpo
<御参考>
マルコが中国からベニスに連れて来たという召使はタタール人だと言いますが、タタール人とは「ロシアのヴォルガ川中流域(イデル=ウラル地方)に居住するテュルク系民族。」とWikiにあります。モンゴル兵が攻め入って帝国に併合していますから、マルコはタタール人召使いを中国で雇うことになったのでしょう。

東方見聞録はネット上で文庫本が販売されています。娘に頼んで入手してもらおうかと思っていますので、このブログが公開される前に読み終えていたら、簡単に感想を述べさせて頂こうかと考えています。
で~Wiki「東方見聞録」によれば、マルコの旅の本に、途中の町や中国の町の名前が記載されているようで、もしマルコが旅をしなかったとしたら、とても知り得なかったはずだと素直なmhは信じてしまいますが、それでも懐疑的な学者がいるってことは、どういう訳なんでしょうか。お釈迦様も仰るように、因果応報。かならず、その理由はあるはずなので、それを調べてみるのも面白いかもしれませんが、資料が入手できるかなど、調査に伴う不都合ばかりが頭に浮かんで、ずぼらで根性無しのmhが取り組めるテーマではないなぁ、と断念することに決めました。
(追記)
娘が全訳「マルコ・ポーロ東方見聞録」(青木一夫訳)を贈呈してくれました。定価2千円で新品で帯付ですが、アマゾンで6百円程度だったようです。で~親不知の抜歯手術入院中に半分は読破しましたが・・・白状すると、面白くありません!次から次へと新たな場所での新たな事象が紹介されています。よくまあ、こんなに豊富な情報を覚えていたものだと感心させられます。地名や人名や、物の名前まで、何度読んでも覚えきれない固有名詞が次から次に出てきて、キャパシティーが小さいmhのと頭ではとてもついていけません!途中で匙(さじ)を投げ、チパング島の話(日本に関する記事です)を見てみると、黄金が屋根から家の中まで敷き詰められているとのこと。これを略奪しようと、大汗(フビライです)は二人の将軍に兵を授けて、中国の2つの港(名前は省略しますが、片仮名の固有名詞が記されています)から出港させました。彼らは上陸を果たすのですが、都からはほど遠い場所で、嵐がきたので、船に戻って沖で待機していたら、多くの船が沈んでしまい・・・と凡そ1ページに渡って詳細な説明が続きます。

こんな調子で、中国の町や近隣諸国の様子が事細かく語られているのですが、どこまで信用できるのか、懐疑的になりました。しかし、専門家の多くは、記事の内容を見る限り、本人が中国に行ったとしか考えられないと言っていますから、中国で聞いた日本の話やインドの話でしょうし、当時、日本やインドの詳細を語る知識を持つヨーロッパ人なら中国を訪れたと考えても間違いないということでしょう。これが全て嘘八百だとしたら、大した山師だと思います。
(完)
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