Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ヴァイキングの不思議


ブログ「エーゲ海の黙示録の不思議」で紀元前1200年頃、エーゲ海を中心に暴れ回った“海の民Sea People”をご紹介しました。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-269.html
クレタ島に生まれていた華麗なミノア文明の崩壊や、小アジアのヒッタイト帝国の衰退などに一役かったと考えられている海の民ですが、1百年後、どこかへ消え去り、歴史から忘れ去られました。

今回は、似た運命を辿(だど)った“ヴァイキングViking”をYoutubeからご紹介しましょう。

ご参考ですが、“ヴァイキング”と聞けば食べ放題の料理を思い浮かべる方にお教えしておきましょう。“ヴァイキング料理”は和製英語で、日本以外では日本人が多いハワイや韓国あたりでしか通じない言葉です。デンマークを旅した料理家が、様々な料理を一つのテーブルに並べてビュッフェ形式で提供するスウェーデン起源のスカンジナヴィア料理“スモーガスボード”を日本で広める際、北欧といえばヴァイキングだろうってことで命名した、とWikiにあります。

で~ヴァイキングVikingはというと、古ノルド語で vikingr(フィヨルドvikから来たもの)らしいです。

北欧と言えばヴァイキングくらいしか知らないmhですが“どういう人?” って聞かれても“海賊じゃあないの?”としか答えられません。海賊の英語はpirateでVikingじゃあないんですねぇ。さてヴァイキングって何者なのでしょう?

皆さんの中にも私と同じレベルの知識しか持ち合わせてない方が多いと思いますので、今回ご紹介するYoutubeフィルムで彼らの盛衰と、彼らが遺した物を勉強し、友人とヴァイキング料理を楽しむ時があれば、知識をひけらかして見直させてあげましょう。

御参考:ヴァイキングが活躍した領域図
b0501.png
・・・・・・・・・・・・
今から12百年前、寒く厳しい北海からヴァイキングは生まれ出て、解き放たれた獣のように、彼らの存在など思いもしていなかった世界へ拡散していった。
b0502.png
彼らはフィヨールドfjordの多い土地からやって来た。現在のスカンジナビアで、家畜を飼うには厳しく、敵対する恐ろしい部族が多い土地だった。彼らは、スカンジナビアの生まれ故郷に埋めた宝物と、横暴で勇敢な探検と侵略に満ちたサーガ(注)を遺した。

Wiki:サーガ(Sagaサガ)
中世アイスランドで成立した古ノルド語(古北欧語、古アイスランド語とも)による散文作品群の総称。同時代に書かれたエッダ詩がゲルマン民族の神話や英雄伝説を題材にしているのに対し、サーガはノルウェーやアイスランドで起きた出来事を題材にしたものが多いことに特徴があり、約200点が現代に伝わっている。
(mh羊皮紙に書かれています。)

1880年、ノルウェイの考古学者たちは驚くべきものを発見した。それは過去への窓を開け、ヴァイキングがどのように生き、そして死んだのかを初めて明らかにすることになった。彼らは容器の破片や、妙な道具や、宝石や、木製の像なども見つけた。
b0503.png
専門家「それは驚くべき発見だった。角が付いた兜(かぶと)やヨーロッパに伝えられていた剣(つるぎ)を身に付けて虐殺や略奪の文化を持っていたヴァイキングを、当時のヨーロッパの人々のように高度で芸術的な文明をもつ人々に変えたのだ。」

スカンジナビアの多くの発掘場所で掘り出された一つの物は、ヴァイキングが普通の、北方の人々だったということを示していた。“墓の船”だ!
b0505.png
埋葬地に埋められていた“墓の船”からは、あの世への旅に必要な品物も一緒に見つかった。

mh:1880年に見つかった墓の船。以降、いくつも見つかりました。
b0506.png
専門家「彼らは何処へ行くにも船を使った。彼らが産み出した、とても素晴らしい船で、発見された船を見た時、誰もが驚嘆した。それは、帆を立てて航海する優れた海兵船で、取り扱いに優れ、水深10cm程度の川でも引きながら移動できた。」
専門家「ヴァイキングが遺した沢山の素晴らしい人間的なものの一つは、遺体を船と共に埋葬したことだろう。永遠の旅に出る船に、あの世での暮らしに必要な物を詰めて故人を送り出したのだ。しかも、これらがとても良い状態で残されていたんだ。」
精巧な埋設品から見つかった不思議な野蛮人は誰だろう?彼らに暗黒時代(注)を支配させることになったものは何だろう?
b0507.png
Wiki:暗黒時代Dark Ages
ヨーロッパにおいては、西ローマ帝国滅亡後からルネサンスの前までの中世を指す。

物語は700年代後半のノルウェイから始まる。
b0508.png
専門家「我々は、ヴァイキングが海に出て攻撃を仕掛けるようになる前に、どんな暮らしをしていたのかを示す証拠を持っている。農業や牧畜をしながらのんびり暮らす傾向が強い人々で、村や部族などの集団で暮らしていた。集団には統治者としてのリーダがいて、時には集団の間で戦いも行われていた。ヴァイキングたちの生活は、生き残りを賭けたものだっただろう。気候は他のヨーロッパと比べて寒く、時には極寒の中で留まっていることすら困難だった。この点は彼等にとって重要な問題だった。」
ヴァイキング時代の夜明け時は、ノース人(注)にとっては家族を中心とした農園が経済基盤だった。

Wiki:ノース人(Norsemen、Norse)
北欧全体に広がった古代スカンディナヴィアの人々(主にノルウェー人)で、ヴァイキングにも含まれる。

農業や牧畜に携わる人々で、暖かい季節は穀物や野菜を育てたが、家畜への依存が高かった。しかし、北の地での平穏な暮らしにも終わりが来た。ヴァイキングの人口が増え、さらに肥沃な農耕地が必要になって来たのだ。
緊張は満ち溢れだしていた。
その結果、ヴァイキングの種族間で、暴力沙汰が起きることになったのは当然の帰結だった。強い者は弱い者を攻撃し、斧や剣で農夫たちを襲った。土地争いは全くの無法状態の中で繰り返された。
b0509.png
専門家「王というのは基本的には広大な農場を持っている男だった。王は支援者や農夫や奴隷たちを抱えていた。王がどこかを攻撃しようと言い出せば、他の誰もが彼に従い、攻撃を始めた。ヴァイキングが村を襲う時、彼らは持ち出せるものは全て持ち出していた。攻撃は決して洗練されたものではなかったが、極めて効率的だった。」

しかし、あるヴァイキングが異なる道を歩み始めた。全く別の土地で富を得ようと考えたのだ。家を造る技術や道具は別の仕事に向けられた。北の湾の海岸で船が造られることになった。
b0510.png
この船が彼らの生活を一変することになる。ヴァイキングのロングシップlong-shipだ!

mh:ヴァイキングのロングシップは“船の墓”で発見され、再現された船はオスロのViking Ship Museumに展示されています。
b0511.png
mh:美しいフォルムですねぇ。性能も良かったでしょう。
b0512.png
この卓越したロングシップは革命的な設計の船で、以降3世紀に渡り、ヨーロッパや更にはその外界をも席巻して、歴史を変えることになる。ロングシップにはヴァイキングの代々を通して伝えられた建造技術や航海技術が注ぎ込まれていった。
b0513.png
専門家「ロングシップが無ければヴァイキングも無かっただろう。その技術は素晴らしいもので、おかげで彼らは歴史の中に足跡を残すことが出来た。船を造ることを学ぶようになった時代には、彼らは既に北大西洋を航行できる優れた海兵に育っていた。船は彼らが遠洋まで出かけられる手段になっていた。彼らは1ヶ月か6週間程度で船を作り上げていた。小さな川でも大海でも、同じ設計の船が使えた。川をさかのぼってロシアやヨーロッパの内陸部に侵入するには、少し小型にしておけば十分だった。軽くて、少し持ち上げて引っ張れば浅い川でも移動させることができた。これらの特徴はとても重要だった。軽量の船は稲妻のように素早く走ることができ、追いつくことが出来る船はどこにもなかった。」

専門家「ロングシップはかつての地中海の船のように、沿岸で使われるものではなかった。ノルウェイからスコットランドまで、フェロー諸島(注)からアイスランドまで、アイスランドからグリーンランドまで、沿岸用の船なら不可能な、危険に満ちた大海を航海することが出来た。この航海は他の人々にヴァイキングへの恐怖を抱かせることになった。ヴァイキングはそれを現実のものにする技術を持っていたのだ。」
船は喫水が浅く、適用が広く、当時の技術の“玉石”とも言えるだろう。
b0514.png
Wiki:フェロー諸島
スコットランドのシェトランド諸島およびノルウェー西海岸とアイスランドの間にある北大西洋の諸島

ヴァイキングの集団を導く王や政府はなかった。ノース人の村は夫々が独立し、それぞれが王を持っていた。女子供を村に残し、仲間と共に船で外洋に出ていった。彼らは後に略奪者になり、それに相応(ふさわ)しい武装をするようになっっていった。彼らの最初の犠牲者の中に、793年6月に攻撃を受けたリンダスファーンLindisfarneの修道院僧たちがいる。
b0515.png
リンダスファーンは強い信仰と、宝物を持ち合わせていた、ブリテン島で最も神聖な場所の一つだった。
b0516.png
専門家「修道僧たちは竜の彫り物を付けた船が海からやって来るのを見て、ミサを告げる鐘を激しく打ち鳴らした。ヴァイキングは嵐のように襲ってきた。僧侶たちを殺害し、全ての宝物を持ち出した後で火を放った。」
専門家「僧侶たちは地獄に落された。よく言われているように、悪魔たちが解き放たれて彼らを襲ってきたのだ。ヴァイキングが戦士だというのは疑いようがない事実だ。彼らは脅迫と暴力という脅威を引き連れていた。侵略者で戦士だった。」
b0517.png
専門家「彼らは驚くほど恐ろしく、驚くほど強欲で、驚くほど手際が良かったと私は思う。つまり、彼らは野蛮人だが、戦いでは規律に則って敵に襲いかかったのだ。」
b0518.png
専門家「ヴァイキングは戦う機械のようなもので、筋肉隆々のスカンジナビア人で、しばしば毛皮の下に鎧(よろい)を付け、各人がナイフや剣や戦い用の斧(おの)などの簡単な武器を持っていた。中でも斧は最も恐ろしい武器だったと語り伝えられている。彼らは斧を使い慣れていて、敵に向かって投げ、致命傷を与えていたのだ。」
海岸線に沿って造られていた多くの修道院は彼らの恰好の餌食だった。そこには沢山の宝物が保管されていたし、僧侶たちが反抗することはなかったからだ。
b0519.png
西暦8百年の後半に記録され始めたアングロサクソンの歴史書は5世紀から11世紀における英国の歴史に関する主要な情報源だ。そこに侵略者ヴァイキングがもたらした恐怖が記されている。
歴史書「暴力に満ちた男たちは、略奪と殺戮を用いて、リンダスファーンにあった神の教会を悲惨なまでに破壊した。」
西暦793年に行われた僧侶や宝物に対するこの攻撃は、歴史的な一歩だった。ヴァイキングによる、海からの最初の大きな攻撃だった。
リンダスファーンや英国の海岸線に造られていたその他の、攻撃に対して脆弱(ぜいじゃく)な僧院への襲撃は、ほんの始まりでしかなかった。8世紀の終わりになると、ヴァイキングの攻撃はもっと大きな報酬を求め始めたのだ。ヨーロッパの主要な都市は、ノース人たちに攻撃され、資産を奪われてしまうのではないかと恐れるようになった。
b0520.png
リンダスファーンの略奪から50年程した9世紀の中ごろになると、ヨーロッパには奪い取れる沢山の富があるとの噂が広まり、ノース人たちは家族や村で結託してロングシップを造るようになった。海を横切るための出費を節減しようと考えたのだ。
専門家「スペイン人は黄金を求めてアメリカ大陸に渡ったが、ヴァイキングが探し求めたのは銀だった。彼等にとっては銀が重要で、彼らの持ち物や、修道院の宝物の多くで銀が使われていた。」

ヴァイキングの集団は、束ねる支配者がないまま、海を越えて活動を始めた。船の集団が大きくなっても、指導者は無く、そのため、一旦、敵の殺戮が始まると、留まるところがなかった。ヴァイキングの集団からリーダとなるべき男の名が噂されるようになると、彼らの野心も噂され始めた。ヨーロッパは彼らが略奪するために、そこに在るようなものだった。
b0521.png
専門家「ヨーロッパは言わば妙な大陸で、数少ない大河が流れるアメリカ大陸やアフリカ大陸などとは異なり、縦横に流れる川を伝えば船でどこへでも行くことが出来た。」
川を使った大きな攻撃の一つは悪名高いヴァイキングの指導者ラグナー・アディ(?)によって西暦845年に行われた。120捜の船はセーヌ川を遡(さかのぼ)り、リンダスファーンの伝説を上回る攻撃をパリに仕掛けた。
b0522.png

町に到着する前、ラグナーたちは捕えたフランンス人捕虜を恐怖の結末に追い込んで、敵の力を削いでいた。
b0523.png
専門家「彼らは基本的にテロリストだった。敵に恐怖を与えて自分たちの動きやすい環境を作った。彼らは、出来るだけ恐れられるような振る舞いをした。“子供好き”と呼ばれた有名なヴァイキングがいる。彼は赤子を空に向かって投げ、落ちてくるところを剣で突き刺していたのだ。良い人間がすることであるわけがない。」

現地の僧侶ハーマン・ダリアスは“セーヌ川やロアール川に沿ってヴァイキングの虐殺と破壊は数十年続いた”と書き残している。
b0524.png
船の数は増え、ヴァイキングの攻撃は終わりなく続いた。どの場所でもキリスト教徒たちが大量殺戮(さつりく)と略奪と焼き討ちの犠牲者だった。ヴァイキングは行く先々を征服し、彼らに逆らう者は無かった。
専門家「ヴァイキングの大船団がセーヌ川を下り、パリに近づいた時、大都市にはフランスの王が暮らし、十分な防御態勢も持っていた。対抗すれば壊滅できたかもしれなかったのだが、金を渡して追い払う方を選んだフランス王チャールズ・ザ・ブール(?)は、ヴァイキングの指導者ラグナーに6トンの銀と金を与え、出て行ったら二度と戻ってこないよう伝えた。
b0525.png
これは逆の結果を生むことになった。土地や品物が豊富にあるとの噂が広まり、北ヨーロッパでの略奪行為は更に浸透していった。西暦710年から1100年にかけ、ヴァイキングはあらゆる主要な河や流れを辿(たど)って、ヨーロッパ大陸の中心まで侵攻した。しかし、ヴァイキングを待っている新しい世界があったのだ。
b0526.png

ノルウェイ人はヴァイキングの歴史の中で、恐らく最も華々しい章を書き上げたと言えるだろう。恐れを知らない探検者として西に航海した彼らは、アイスランドとグリーンランドを植民地化したのだ。この植民地化で、2人の伝説的なノルウェイ人ヴァイキングの物語が生まれることになった。“赤毛のエイリーク”と、その息子レイフ・エリクソンだ。
b0527.png
900年代の終わり頃、赤毛のエイリークはこの過酷な土地の最初の入植者になった。情熱的だったエイリークは、アイスランドでの生活を3年で打ち切り、西に向かって出航するとグリーンランドの東海岸で定住を始めた。
b0528.png
専門家「彼は、この土地を宣伝することにした。海岸の近くの土地にしか暮らせる場所は無かったのだが、この地を“グリーンランド”と呼ぶことにしたのだ。実際、そこは緑に覆われていた。グリーンランドにやって来て、そこを故郷にするものもいた。しかし、地の果てとも言える場所で、生活は楽ではなかった。土地は耕して畑にするには厳しかったが、漁業には向いていた。獣の肉も手に入れやすかった。そうはいっても、やはり過酷な土地だった。」
エイリークが指導者だった間、ノース人の農業社会は、この隔絶した土地で細々と生き残っていた。故郷のアイスランドの習慣に従い、あらゆることは村人全てが招集され、討議して決められていた。
b0529.png
そこでは村人なら喋る権利を与えられ、村の防衛や、生活に関する問題が議論された。この集団討議形式の中からエイリークの息子レイフ・エリクソンが頭角を現した。
b0530.png
父と同様、レイフ・エリクソンは探検に憧(あこが)れていた。西暦1000年、彼は出帆した。
専門家「エリクソンは噂を辿(たど)ってみることにしたのだ。別のヴァイキングが残していた話だ。西に旅をし、グリーンランドの他の村を経由した後、風に流されてコースをはずれ、甘美な土地に到達したらしい。彼はグリーンランドは緑でもないし甘美でもないと言ったという。」
b0531.png
専門家「この話はとても魅力的だ。専門家たちの意見が分かれている話でもある。しかし、私は西暦1000年にアメリカがヴァイキングによって発見されたのは間違いないと考えている。レイフ・エリクソンが造ったニューファンドランドの村で調べた炭素年代法によれば、造られたのは丁度、西暦1000年だった。その後、さらに南に移り住んだ人もいたはずだ。」
グリーンランドから移住して定着する試みは失敗に終わっている。ニューファンドランド入植地はたった10年続いただけだ。しかし、コロンブスが語り草となる旅をする500年前に、ヴァイキングは東半球と西半球を結び付けていたのだ。
b0532.png
ニューファンドランドで冬を過ごしたレイフ・エリクソンは、グリーンランドに戻ると、島の住民たちに少し変わった新しいことを持ち込んだ。彼らは、ロングシップを造る道具を使って、新しい宗教のための、でこぼこした十字架を作ることになったのだ。
b0533.png
専門家「彼らは変わる決心をしたようだ。レイフ・エリクソンがノルウェイに行くと、王はグリーンランドの植民地をキリスト教に改宗するよう依頼した。エリクソンはそれを自分の義務として進めることにしたのだ。」
ヴァイキングの影響が広がり始めると、今度は、周辺の世界がヴァイキングの文化を形づくるようになっていた。ヴァイキングの指導者たちは部族統一の手段としてキリスト教を使うことを思いつく。究極の目的は、支配を容易にするためだ。リンダスファーン攻撃から200年後の11世紀になっても、ノース人は王や、統一という考えを持っていなかった。統一を考えることになるきっかけになったのはキリスト教だったのだ。

しかし異教を信じる人々に古代の神々を忘れさせようとしたキリスト教徒のヴァイキングは抵抗に遭っていた。
b0534.png
専門家「支配者や王たちはキリスト教を受け入れていた。そのほうが人々を統治するのに都合がよかったからだ。彼らは人々にキリスト教を押し付けていった。しかし、そこで大きないざこざが起きた。多くの人々はキリスト教が好きではなかった。古いやり方を捨てたくなかった。」

専門家「あるキリスト教宣教団が島にやってきて、改宗を進めたが、多くの人々は懐疑的なままだった。そこで、彼らは、キリストと、異教の神だというヴァザーカと言う名の男のいずれが強い力を持っているのかを調べることにしたのだ。ヴァザーカは、頭が少しおかしな男だった。キリスト教徒は言った。“我々は火を燃やす。あなたたちも火を燃やしてくれ。もしヴァザーカがあなた方の火の中を通り抜けられたとしても、私たちの火の中を通り抜けられなければキリストの勝ちだ。しかし、彼があなた方の火の中を通り抜けられなければ、あなた方の異教の負けだ。”」
b0535.png
「これと似た話は旧約聖書の中で見つかる。宣教師はそれをうまく利用したのだ。ヴァザーカは簡単に自分たちの火を通り抜けたが、キリスト教徒の火を通り抜けることはできなかった。これを見た誰もが、キリスト教が正しい宗教だと信じたのだ。」
b0536.png
ノルウェイでは、ヴァイキングの統一の重要な触媒が、一人の小さな男の子の運命の中に現れた。ハロルド・ハードラダはノルウェイの王ロウラの腹違いの兄弟だった。ハロルドにも王位継承権があるのは明らかだった。彼は15歳で、ヴァイキングの内紛で敗れた側のメンバーだった。しかし彼は復讐のために戻って来て、敵の血で彼自身の歴史を記すことになる。
b0537.png
ヴァイキングは殺人的なペストのようにヨーロッパ中に拡散していた。
b0538.png
最初に陥落したのは武装していない修道院だった。しかし、ヴァイキングは直ぐに、大陸の奥深くまで恐怖を持ち込んでいた。当然、ヴァイキング同士の衝突もあった。内紛を止めるものは無かった。1030年のノルウェイ北部のフィヨールドの町スティクルスタッドStiklestadの闘いは、現在のデンマークを統治していたヨット大王とノルウェイの王ロウラの間で行われた。そして内戦の灰の中から、若い兵士が頭角を現した。ハロルド・ハードラダだ。
b0539.png
王ロウラの異母兄弟で王位継承権を持つ男だ。11世紀の中頃、ハロルドは成人していた。彼はノルウェイを導き、統一しようという野心を強めていた。しかし、その前に、彼は力を獲得しておく必要があった。
専門家「ハロルドは興味深い性格の持ち主だ。彼は若くしてヴァイキングの統治を始めた人物と言ってもいいだろう。16歳の時、彼の腹違いの兄弟を傷つけ、それが元で王は命を落としたが、彼自身は自由の身のままだった。」
ハロルドは北の地から追放され、スウェーデンに向かった後にキエフKievに辿り着いた。繁栄していた商業都市で現在のユークレインUkraineだ。1031年、彼はスウェーデンのヴァイキングのやり方に倣(なら)い、東方の異国の品物を取りあつかうようになった。
b0540.png
スウェーデン人のヴァイキングは元々、侵略者としてやってきたのだが、その当時は既に商人として定住していたのだ。
商取引を通じ、キエフの町はノース人の社会を東方の広い世界と結び付けていた。各地からのお金も集まっていた。小さな仏像などの珍しい品物も取り扱われていた。ハロルドは略奪品を売りさばける市場が無ければ、自分たちの力には限界がくることを、この時に悟ったようだ。
専門家「ヴァイキングは何百年もの間、交易で生計を立てていた。修道院にいって容器や書物を奪っても、それを家に持ち帰っていたわけではない。どこか別の場所に持って行き、自分がほしいものと交換していたのだ。」
b0541.png
物品は交易の一部でしかない。ヴァイキングは人間も取引していた。奴隷商人は襲撃で捕まえた男や女を交換していた。

キエフでの経済に関する体験学習にもかかわらず、ハロルドは市場で富を蓄えることはできなかった。彼は、戦士として復活し、王になるための技術を学ばねばならなかったようだ。
西暦1038年、頑強な男に成長していたハロルドは、略奪に飢えながら、ヴァイキングの優れた戦士たちを引き連れていた。
b0542.png
外国の統治者たちの代理としてヨーロッパの東側で戦い、ノルウェイに戻って王位を奪回するための富と権力を獲得していった。

ハロルドは、シシリー島で伝説的な機智を現した。
専門家「ハロルドの統率については、彼の蛮勇もさることながら、狡猾(こうかつ)さによって特徴付けられる。その上、卑劣で、これこそがヴァイキングの大きな特質であり、彼らが好む方法だった。ハロルドの戦術の一つは、町にやって来ると、町を取り囲み、部下たちに町の中や外を行きかう小さな鳥を掴まえさせ、タールを付けた糸を鳥に取り付け、火を点けて町に飛んでいかせ、鳥の巣から火事を引き起こしてから攻撃を仕掛ける方法だ。」
ハロルド王のサーガ(記録詩文)の中で、13世紀のアイスランド人歴史家スノーリ・ストールソンはこの方法がシシリーを征服するのに効果的だったと記している。“人々が町からでて慈悲を乞った”と彼は書いている。彼らは町の終わりの日がきたことについて軍とその指導者たちを反抗的に罵(ののし)った。ハロルドは許しを求める人々の命を助け、町を彼の統治下においた。
b0543.png
追放されてからおよそ15年後、ずる賢いハロルドは、ぼろぼろになっていた生まれ故郷ノルウェイを我が物にすることができるだけの評判と富を抱え持つ男になっていた。西暦1046年、彼はスカンジナビアに戻った。彼の軍隊は王に相応しい資財と野心は持っていたものの、まだ王というタイトルは獲得していなかった。ノルウェイの王位継承権を持っていた彼は、それを武力で訴える準備が整っていた。
専門家「しかし、問題は、既に彼の甥が王位についていたことだ。そこで、卓越した政治的な能力を持っていた彼は、ある取引を主張した。共同で統治しようと申し出たのだ。それは上手くいった。すると甥は1年で死んでしまう。死因は我々には判っていないのだが、ハロルドが甥の王を死に追いやったのではないかと言われている。ハロルドは勿論、これを否定している。いずれにしても彼はノルウェイの王に復帰できることになった。」
b0544.png
1047年、権力を掴んで凡そ1年後、ハロルド・ハードラダはノルウェイの王になると権力を使ってヴァイキングたちを統治した。彼の軍隊は非情だった。反抗する村や人々は抹殺(まっさつ)し、野ざらしのまま放置した。彼の主張は単純だった。“屈服か、さもなくば死だ!”
その結果、彼に敵対していた人々は全て、不忠の代償として究極の報奨である死をもって支払う羽目になった。
b0545.png
ハロルドのサーガには、王は、自らの言葉で、自らの飽くなき非情を祝ったと記されている。
“私は悔いることなく殺害した。殺害の全ては私の記憶に残っている。反逆は、それが私を打倒してしまう前に、どんな手段を使ってでも、完璧に潰しておかねばならない。暴動という樫の木は小さな団栗(acornどんぐり)から成長するのだ。”
b0546.png

反逆が全て握りつぶされると、祝賀の日々が続いた。王ハロルドの忠誠な部下たちは彼の“長い家(注)”を埋め尽くし、気前よく祝賀会が催されていた。
(注:“長い家”は文字通り、ヴァイキングの長い家を指します。例を載せておきましょう。)
b0547.png
専門家「もしお金や黄金を豊富に持っていたら、ヴァイキングの仲間の中では力を得ることができる。何故なら、それを人々に分け与えることで軍隊を編成し、仲間に食べさせることが出来、彼らを黄金で飾り立ててやることができるからだ。それは人々が望んでいることだった。宝物を沢山持っていさえすれば、重要人物になれたのだ。だからハロルドは王室に沢山の宝物を蓄えていられるよう、いつも気を配っていた。」
b0548.png
“長い家”の大きな部屋の中でヴァイキングの政治的な決定は行われていた。忠誠が形成され、権力が培(つちか)われていた。ハロルドはキエフの町での体験を生かし、あらゆる品物を取り扱う町を海岸に造った。町の名はオスロOsloだ。
b0549.png
偉大な港になる運命を持った町だった。ハロルドは、交易はヴァイキングを結び付け、望んでいた富や平穏をもたらすと考えていた。オスロの市場はヴァイキングの村から届けられた小麦や野菜、毛皮、反物などで溢れていた。ヴァイキングのロングシップは知られている世界の全てから品物を運び込んできた。胡椒、黄金、繊維、玉石、それに奴隷も。土器やガラス器はドイツと、装飾品はフランスと、硬貨はアラブ諸国と交易して入手した。オスロが発達し繁栄するにつれ、ヴァイキングは凄腕の商人になっていった。この交易社会の日常生活の様子は彼らの墓から見つかる黄金や、装飾された剣や、装飾品などから判る。しかし、この交易センターの繁栄もハロルドの食欲をわずかに満たすだけだった。彼は更なる富と権力を望んでいた。
b0550.png
専門家「ハロルドは次の大きな目標を決めた。英国だ。彼は船に乗り、勿論、沢山の船と共にだが、反抗的な英国を攻め立てることにした。」

英国を見据えながらも、貪欲なハロルドは、彼のロングシップが行ける所を全て自分の帝国に組み込むことを思い描いていた。昔、難民だった彼は、今や驚くべき勢力を獲得し、敵対する人々の間で政治的な影響力を持つまでになっていた。彼は既に、もっとも困難なヴァイキングの強敵たちを征服していた。彼の侵攻は大した抵抗を受けることなど無いはずだった。英国とその富の全ては彼にとっては簡単に手に入れられるはずだった。しかし、ハロルドを待っていたのは、手ごわく、統制された軍隊だった。彼が立ち向かおうとしていたのはこれまでに出会ったどの敵よりも強力だった。
b0551.png
1066年9月末、英国の町ヨークに、緊急のニュースが届けられた。ヴァイキング王ハロルド・ハードラダの軍が近づいている!英国人はハロルドが残忍だとの噂を聞き知っていた。彼を止めることができるのは、素早い行動と果敢な勇気だけだ。
b0552.png
ハロルドは海岸線の占領から始めた。一連の激しい戦いの後、彼の勝利は見えてきた。ヨークはハロルドに降伏したように思われた。ハロルドは軍と共に町から10Kmほどのスタムフォード橋に向かった。彼はヨークの統治者たちが敬意を払い、貢物として捕虜を渡してくるだろうと期待していた。
b0553.png
実際、ハロルドは英国の北部は既に自分のものだとの確信を強くしていたので、後ろに大軍を引き連れながら、身の回りはわずかな部下で固めて、先頭を切って進んでいた。
b0554.png
しかし英国人は簡単に怯(ひる)むことはなかったのだ。英国の王ハロルド・ゴドゥインソンはヴァイキング軍を分裂させようと二手に分かれて森の中を進軍していた。剣士たちは鎖帷子(くさりかたびら)を纏(まと)い、射手たちは十分な矢を携(たずさ)えていた。
b0555.png
専門家「ハロルドのサーガによればこうだ。“英国軍が現れた時、ハロルドたちは非常に驚いた。敵の鎧(よろい)は真昼の太陽の光を反射して輝き、どんどん近づいてきた。彼らは何者だ?近づいてくるにつれ、何者か分かった。”」
ヴァイキングのハロルドのサーガによれば、“それは武器を跳ね返す氷の板のように見えた”という。ハロルドはここで致命的な決断をした。一旦退却して残りの部隊の到着を待つ代わりに、戦うことを望んだのだ。

英国軍は、戦いのある時点で、一旦、後退した。ハロルドは勝った!と感じ、彼の軍も陣形を崩してしまった。
専門家「ある物語が残っている。一人の兵士が橋の上に立ち、攻めくる英国軍を跳ね除けていた。中世では軍団の兵士の数はそんなに多くないのが普通だったのだ。」
ハロルドのサーガによれば、ハロルドは次のように言って彼の軍勢を立ち直らせたという“戦場では堂々と胸を張り、刀剣で敵の頭蓋骨を粉砕せよ。”
b0556.png
専門家「橋の上の兵士は敵を追い払ったが、彼が突き倒されると、橋を渡って来た英国軍はハロルド軍に攻めかかり、熾烈な争いが始まった。ヴァイキングは必死に戦ったが、次々に倒され、彼らの血は英国の土の中にしみ込んでいった。」
b0557.png
ヴァイキングのサーガはこの戦いを振り返ってこう言っている。“争いに鋭い指導者の心臓は冷静に脈打っていた。偉大な王は最後の力を発揮して雷の如き戦いを挑み、血に染まった彼の剣は次の敵に襲い掛かって死をもたらしていた。”しかし、戦いの最中、一本の矢がハロルド・ハードラダの喉を射抜いた。
b0558.png
ハロルドの援軍は1日遅れで到着したが遅すぎた。数の上で大きく負けていたヴァイキングは敗走を強いられた。その日の夜には、ヴァイキングの敗北は決定的になっていた。ハロルド・ハードラダは大きな野心を抱え、数千人の兵士とともに1066年の9月に英国にやって来たが、そこで味わったのは敗北と彼の死だった。
b0559.png
専門家「ハロルドはノルウェイから軍勢を乗せた270捜の船でイギリスに攻め入ったが、戻れたのはたった30捜だけだった。」
この争いに続く数十年の間も、ヴァイキングは散発的な攻撃を続けていたが、ハロルド・ハードラダほどに帝国設立に近づいた男はいない。

新たなヨーロッパの歴史が始まった。1066年にハロルドが死ぬまでには、ヴァイキングの影響力は世界の文化や貿易や歴史の中に深く根付いていた。ヴァイキングの子孫たちも世界に同化し、先祖が植民地化した土地のなかに吸い込まれていた。広まっていたキリスト教による統一の力は、戦いで負けたこと以上にヴァイキングの終焉をもたらしていた。
専門家「ヨーロッパの歴史の本質は変わった。ロシアは今はロシアだ。ヴァイキングの土地はロシア系バイキングの土地になっている。ノルマンディーは今はノルマン人の土地になっているが、ノルマン人はヴァイキングだ。ノルマン人は英国を征服した。つまりヴァイキングの遺産はヨーロッパの歴史の中に拡大していったのだ。」
戦士として、定住者として、探検者や交易人として、ヴァイキングは驚くほどに社会的かつ政治的な変化をもたらした人々だった。地球的な経済成長やヨーロッパの強化に拍車をかけ、それと同時に、国家的な特徴を創り出し、造船や航海の技術を進歩させた。彼らの残忍な攻撃は、ヴァイキングに“野蛮人”という長く続く噂を与えることになったが、富と統治の好機を探求しながらも、ヴァイキングが西洋の文明化を破壊することはなかった。むしろ、彼らは、文明を豊かなものに変えたのだ。
b0560.png
The Vikings : Who Were They ?
https://www.youtube.com/watch?v=EPtBcbFDyWo

結局、ヴァイキングが求めていたものは、家族が安住できる土地だったんですね。その土地は生まれ故郷のスカンジナビアに見つからなかったので、他人の土地を奪うしかなかったわけです。土地を奪うため、必要なら殺戮したんですね。同じ殺戮は、戦国時代の日本でも行われました。定住できる環境を求め、権力を追求し、これを阻(はば)む人々を殺すのは、国際法がない時代の常套手段でした。

歴史で学んだ人類は、領土や権力を求めて、他人の資産を奪うことを禁止するようになりましたが、それもほんのつい100年程前のことで、それまでは帝国主義や植民地主義がはびこり、弱者をいじめ、殺害していたんですから、人間とはいかに野蛮な動物なのかとつくづく思わされます。

それにしても、ヴァイキングが生まれたノルウェイなどのスカンジナビア諸国は、今は福祉大国で、日本などよりもずっと豊かな国になっています。はっきりした理由はわかりませんが、少ない人口で大きな領土を確保しているため、一人当たりの取り分が多いことが一因ではないかと思います。

グリーンランドはデンマーク王国の自治領で独自の政府も置かれているようですが、最初に住み着いたヴァイキングは壊滅したようですね。原因は気候変化で、小氷河期のために農業が壊滅したことが原因だと別のYoutubeで紹介されていました。Wikiで調べると、グリーンランドの公用語はデンマーク語ではなく“グリーンランド語”です。英語world(世界)はデンマーク語でverden、人間は英語でhuman、デンマーク語でもhumanですが、グリーンランド語ではinuitイヌイットと言います。ってことは、住民はエスキモーってことですね。

北アメリカのニューファンドランドにはヴァイキングが暮らしていたというLong Houseも沢山見つかっています。
b0561.png
この住居は放棄されたようですが、住民の全員がグリーンランドに戻ったのではなく、南に移動したり、カナダに暮らすエスキモーと混血した人もいる、という説があります。青い目で金髪のエスキモーを見たと言う人もいるようですが、グリーンランドやニューファンドランドでヴァイキングとエスキモーの混血があっても不思議はありません。

(完)
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する