Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

聖杯の不思議


聖杯は英語ではHoly Grail又はHoly Chaliceと言われています。

Wiki:聖杯
下記の事物を指す。
1.キリスト教の儀式である聖餐に用いられる杯。カリス(Chalice)。
2.キリスト教の聖遺物のひとつで、最後の晩餐に使われたとされる杯(Holy Chalice)。
3.中世西ヨーロッパの聖杯伝説に登場する杯(Holy Grail)。

イエスと弟子たちの最後の晩餐に使われたものと信じられている聖杯はいくつか存在する。
1. エルサレム近くの教会にあったとされるもの
7世紀、ガリア(フランス一帯の旧名)の僧が聖地巡礼のさいに、エルサレム近くの教会でそれを見て、触れたと証言している。銀でできており、把っ手が2つ対向して付いていたという。現在の所在は不明。

2. ジェノヴァ大聖堂にあるもの
1101年にカイサリア(ローマ皇帝カエサルに因んで名づけられた都市;パレスチナなど近東に3箇所あった)で発見されたと伝えられる。対角37cmの6角形で、杯よりも鉢に近い。エメラルドでできていると信じられていたが、ナポレオン・ボナパルトがイタリアを占領したときパリに運ばれ、後に返還されたときには割れており、緑色のガラスであることが分かった。ウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)で触れられていたものと思われている。
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mh;手前に欠けた部分が見えています。

3. バレンシア大聖堂にあるもの
イエスの弟子ペトロがローマに持込むが、弾圧の危険に聖杯はいったんピレネーに難を逃れる。その後スペイン内を転々とした後バレンシアに持ち込まれたと伝えられる。直径9cmの半球状、高さ17cm。暗赤色のメノウでできている。1960年にスペインの考古学者は、紀元前4世紀から1世紀にエジプトかパレスチナで作られたもので、時代的に合うと主張した。
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4. メトロポリタン美術館にあるもの
1910年にアンティオキア(シリアの古代都市;ローマに並ぶシルクロードの西の起点とも言われる)で発見された。外側は鋳物で装飾が施され、内は銀の2重構造になっている。聖杯ではないかとの触れ込みで、1933年のシカゴ万国博覧会(第2回)で展示された。その後の研究によれば、6世紀にアンティオケイアで作られたものとされる。杯ではなく教会で照明用に使われたものと思われる。
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仏教徒であるmhにはHoly ChaliceもHoly Grailも大差はなく、キリストが十字架にかかる前夜、12人の使徒と飲みかわした時に使われた杯をもって聖杯と呼ぶものだと思っていました。この聖杯(?)が十字架の上でキリストが流した血を受けとめたという話もあります。

で~、この聖杯は今も残っているらしい、という話が現在だけではなく、キリストが十字架にかけられて以降、折に触れて話題になっているんですね。ハリウッド映画の「インディアナ・ジョーンズ;最後の聖戦」ではヒットラーの命令で聖杯を探しているナチス親衛隊と聖杯を巡る争奪戦を繰り広げ、洞窟に行き着きます。そこには沢山の杯と、聖杯を守り続けている一人の十字軍戦士がいたのです。
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で~ジョーンズJrは本物の聖杯を選び出し・・・
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以降の話は省略しますが、とにかく、十字軍によって長年守られている聖杯があったってことですね。で~この話は、聖杯伝説を参考にして作られたものだと思います。

Wiki:聖杯伝説
一般には騎士道文学での聖杯を追い求める物語全般をあらわす。15世紀の中世西ヨーロッパに武勲詩からの発展として成立した。騎士の武勲や恋愛を含んだ貴種流離譚的な要素を持ち、現在でもヒロイック・ファンタジーの要素として文学や絵画の表現に好んで取り上げられている。内容からキリスト教的背景をもつとされるが、キリスト教の教義の一部とされたことは一度もなく、したがってギリシャ・東ヨーロッパなど正教会が優勢な地域では本項で扱う聖杯伝説は存在しない。

日本の仏教にも日蓮宗や曹洞宗、天台宗など、いろいろな宗派があるように、キリスト教にも宗派があります。
簡単な区分としては次の通りで、西方教会Western Christianity、東方教会Eastern Christianityに二分されます。
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プロテスタントProtestantismとは、ローマ教皇庁を中心とするカトリック教会の改革を求めるマルティン・ルターらによる宗教改革運動(抵抗するprotest)の結果生まれたものです。簡単に言えば反体制派ですね。

で~聖杯伝説に着目すると、カソリック教会Catholic Churchでは伝説は存在し、正教会Orthodox Churchでは存在しないとWikiに説明されています。

主な宗派の教えの要点を対比した表があります。
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これを見ると・・・
結局、どう違うのか、お釈迦様を崇拝するmhには理解不可能です。

キリスト教の宗派の違いも理解できないmhがお送りする「聖杯の不思議」が読者諸氏を納得させられるかどうかわかりませんが、まずは兎に角、フィルムに出来るだけ忠実に従って聖杯探求物語をご紹介いたしましょう。

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不可思議な時代の痕跡を求めて・・・魔力を持つ剣は本当に存在したのか?
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寓話の中のキャメロット城はどこにあるのか?
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アーサー王とは?円卓の騎士とは?キリスト教徒にとって最も神聖な遺物である聖杯を収蔵していた伝説の“聖杯城”はどこにあったのか?

The Holy Grail:聖杯
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我々の旅はドイツ南西部の山岳地帯から始まる。そこで、考古学者たちがケルト人の王子の墓を見つけた。彼は凡そ2千5百年前に埋葬された。遺体のそばで副葬品が見つかった。豪華な青銅の容器だ。
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聖杯探求の第一歩はケルトの不思議な世界に我々を連れていく。

ケルトは東からヨーロッパにやって来た。ドナウ川渓谷やアルプスに沿って西に移動し、ヨーロッパの山岳地帯に入り込んできた。彼らは文化、儀式、伝統も持ち込んだ。アジアで既に飼いならしていた馬をヨーロッパに連れて来た。青銅より耐力がある鉄も持ち込んだ。
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ケルトの時代、王子とともに彼の所有物を埋葬するのは伝統だった。死者の所有物は神々への捧げ物だったのだ。目には見えない死者の魂があの世でも生き続ける時に何不自由ないようにと考えたのだ。
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儀式の中や葬儀では、祈祷師は宝石類を、そして最も重要な捧げ物でもある剣をも神聖な湖に投げ込んだ。
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考古学者たちは、神聖な湖で見つけた数百の物の中から、ケルトの長剣の修復をしている。
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ローマ人は剃刀(かみそり)のように鋭い鉄製の刃を恐れていた。ローマ人は短剣を使っていた。それは接近戦で効果的だった。しかしケルトの長剣は敵から離れたままで突き刺すことが出来る武器だった。マンス(?地名)のロマノ・ドイツ中央博物館でケルトの墓で見つかった長剣が検査されている。剣は曲げられている。
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後で使えないよう、意図的に形を変えられていたのだ。ケルトの長剣からイクスカリバーExcaliburの神話が生まれた。魔力を持つ、どんなものにも負けない武器だ。
(イクスカリバー:アーサー王の不思議な剣)

魔力は容器にも宿っていた。人々が飢えに陥った時、“豊富な角horn of plenty:食べ物が詰まった角”は特別な意味を持っていた。角に満たされている食物はいくら食べても減ることは無かった。
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鉢(はちbowl)、甕(かめjug)、杯chalice、大釜cauldronなども全て不思議な力をもつ容器だと考えられていた。
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歴史家アッシェ博士「初期の杯grailの物語は詩で、アーサーと彼の騎士たちが不思議な容器の大釜を捜し求めるという内容だ。ケルトの古い神話によれば、大釜は不思議な力を持っていた。そして生まれたのが中世に採り上げられた聖杯探求物語だ。その時、容器はキリスト教の遺物に取って替えられた。背景に邪教(paganケルトの信仰)があったことは間違いない。」

ケルトの伝説によれば、伝説のアーサー王は不思議な大釜を探して謎の旅に出発した。彼の危険に満ちた旅は死者の王国がある地下世界に繋がる湖から始まる。
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王国は地下の中心にあると信じられていた。アーサーは地下世界の守備兵によって侵入を阻(はば)まれるが、彼らを欺き、幽霊や悪魔を退治して地下世界の軍隊を打ち負かしただけではなく、不思議な容器を奪い取る。伝説によれば、容器を所有したアーサーは生と死の支配者になる。
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歴史家クラウディン女史「聖杯物語の一つでは、不思議な大釜は永遠の命を約束する“豊富な角”のひとつだったと言われているの。ケルトの“神の光の剣”も英雄に与えられるのよ。主人公が、ある特別な物によって力を獲得するという物語は全てケルトの土地から生まれたのよ。」

ケルトは、自然が神だと信じていた。植物、動物、そして岩さえも人間と話すことが出来た。自然界の全てが魂を持っていた。
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近代の御伽噺(おとぎばなし)の中に現れる妖精fairy、仙女elf、魔法使いsorcererは自然の中で暮らしていると信じられていた。彼らは人々の運命を取り仕切っていた。祈祷師はかけ離れた世界と接触することが出来た。

ケルトは定期的に謎の茂みに集まっては祈りの儀式を行っていた。祈祷師やドゥルーイズは、詩人や賢人でもあり、疾病を治す力さえ持っていた。
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魔術師たちは正義を成す者たちを祝福し、悪魔たちを呪った。彼らの権威と呪文(じゅもん)をもって自然の力を鎮(しず)めた。ケルトの信仰の奥深くに根付いていたのは、戦士は死後に復活できるという概念だった。ケルトは冷酷な戦士だった。男も女も戦では野性的で、手加減することは一切なかった。彼等は、敵の頭を切り落とすのが習慣だった。
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首を斬られた戦士は決して生まれ変わることは出来ないのだ。
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この野蛮な儀式は聖杯の物語にある種の光を当ててくれるかも知れない。紀元前1世紀のこの容器に刻まれたケルト的なレリーフは聖杯の物語の手掛かりを与えてくれる。
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左側の王子は無傷の兵士を頭から容器の中に漬けている。
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下では兵士たちが死者の王国を逃れて命を復活している。彼らの後にキリスト教たちがそうしたように、ケルトは死からの復活を信じていた。シュツッツガルドの近くのハフトホーヘンでの王子の墓の発見は考古学者たちを驚かせた。
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王子の墓で、青銅の大釜と巨大な飲み水用の容器を見つけた。人間一人を入れられる大きさだ!
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歴史家シャーファー博士「人類の歴史の中で、飲むことdrinkingは特別な役割を持っていた。多くの儀式において、飲むことは不思議な役割を果たしていた。特に不思議な容器を持つケルトで、その傾向が強かったことを我々は知っている。容器は再生とか特別な力をもたらした。この伝統が聖杯という考えに繋がっているのだ。滋養を与え、再生をもたらしてくれる容器だ。」
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ケルトが勢力を失った後も不思議な容器の概念は生き続け、聖杯の物語が生まれた。聖体拝領communionの儀式では、キリスト教徒は最後の晩餐を思い起す。キリストが、血を象徴するワインで杯chaliceを満たした時、杯とワインは永遠の命の象徴になった。
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イエス・キリストの最後の日に行われた出来事は広く知られている。彼が十字架に架けられたことは語り継がれ、記録され、数えきれないほど人の話題になってきた。しかし、よく知られていない話もある。その一つに聖杯が現れる。伝説によればローマの指揮官ロン・ギーナスは銛(もり)でキリストの脇を刺した。著名な商人でキリストの親戚だったアラマシアのジョセフ(mh洗礼者ヨハネ)は最後の晩餐で使われた杯chaliceに、キリストから流れ出る血を集めた。多くの人々は、この杯が聖杯Holy Grailだと信じている。
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作家マルカール「全ては教会側が主張していることだ。我々がGrailと呼んでいる容器は、アラマシアのジョセフがイエスキリストの血を集めた容器だ。十字架から滴り落ちて来た血だ。キリストはアラマシアのジョセフの家系の人間だった。これらの伝説や伝承がGrailの神話の元を形成し、飽くなきGrailの探求がアーサー王の騎士たちによって行われることになった。王の騎士たちは単なる戦士でしかなかった。しかし、彼らはその考えを必要としていたのだ。それはGrailで象徴された完成への探求だ。」

伝説によれば、アラマシアのジョセフは杯を保管していたが、キリストに従う者として逮捕され監獄に入れられた。
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釈放された時、彼は生まれ故郷を捨て、古代の地中海ルートに沿ってローマを経由し、南フランスに到着した。彼はマリー・マグダレンを含むキリストの弟子達と共にロングドックに落ち着いたと考えられている。その時、聖杯はヨーロッパに一緒に移動したのだろうか?
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考古学者ベルトラン「考古学的見地からは、ジョセフのような有名な人物がイスラエル独立祭Passoverのようなお祭りで使われた容器を持ち出したことは考えられる。」
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ヨーロッパに到達した聖杯が何処に保管されていたかを知る者はいない。多くの異なる意見がある。古くから信じられている話の一つによれば、ジョセフと、もしかするとキリスト自身が(!)英国を訪れ、その時に聖杯も持ってきたという。ジョセフはイングランド南部の海岸に到着し、現在のグラストンベリーにやってきた。
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彼はそこで余生を過ごし、英国で初めての教会を建てたという。ベネディクティン大修道院abbeyの遺跡が残る場所は、この国でも最も神聖な場所の一つだ。そこに聖杯が保管されていたことがあるかも知れない。
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歴史家アッシェ「聖杯物語にはいろいろなバージョンがある。しかし、イングランドでは、杯は磔(はりつけ)の後に、ここ、グラストンベリーに持ち込まれ、その後、失われてしまったのでアーサー王の騎士たちがそれを探しに出かけたと言われている。」
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この時点から聖杯は伝説のアーサー王と彼の騎士たちと密接な関係を持つことになった。
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5世紀のローマ帝国軍の英国からの撤退は、残されたローマ系英国人に惨事をもたらした。かつて南のローマ系英国を守っていたヘイドリアン長城を北の野蛮人たちが越えて侵略してくるのを止めることができるものは何もなかった。
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組織的な防衛戦力を失って国は混乱に陥った。

しかし、たった一人の王だけは軍を編成し、ケルトに対抗した。アーサーだ。
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絶え間なく続く戦いで、アーサーは侵略者たちを打ち破り続け、平和と安定に満ちた栄光の時期が続いた。アーサーの偉業は伝説となった。彼は英国の黄金時代を象徴する男だった。暗黒時代の混乱が続く時期には、アーサーのような人物が、またはアーサー本人が戻ってきてくれることを人々は望んだ。

北コーンウォールの端に、ティンタジェル城が立っている。
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遺跡の城壁は後世に造られたが、基礎はアーサー王の時代まで遡(さかのぼ)る。
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いつのものかは定かではない。しかし、ケルトの王が西暦470年頃、ここで生まれたと信じられている。城の下の岩壁にはマーリンの洞窟と呼ばれる、伝説の魔術師の名がついた場所がある。
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彼は若いアーサーの師匠だった。当時、多くのケルトはキリスト教に改宗していた。しかし、邪教の伝統は、まだ彼らの考え方を支配していた。古い信仰から新しい宗教への改宗はゆっくりとしたものだったのだ。
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聖杯神話では、邪教とケルトの要素がキリスト的要素と混じり合っている。不思議な力を持つイクスカリバーの剣はケルトのものだ。伝説によればイクスカリバーはどんな敵をも打ち負かした。石からイクスカリバーを引き抜いた者は英国の支配者になれるのだ。
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アーサーの場合、この伝説は真実だった。剣は彼に勝利に次ぐ勝利をもたらした。アーサーの人生の終わりに、彼の忠実な部下の一人は、ケルトの伝説に従って、イクスカリバーを神聖な湖に投げ込んだ。
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聖杯の探検が始まることになったアーサー王の伝説の城キャメロット。歴史家たちは、この城がどこに、本当に存在していたのか、議論を続けている。
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歴史家アッシェ「我々はキャメロット城について注意深く検討している。アーサーの時代、それは英国の首都にあったと考える人々がいるが、そうではない。アーサーに関する全ての物語の中では、キャメロットは彼の居城で、そこには彼の前も彼の後も、人々は暮らしていない。従って、キャメロットは映画の中以外には存在していない。5世紀の暗黒時代の見事な中世の城であろうとも、それがキャメロットであることはない。しかし、アーサーが居城を持っていたことは十分考えられることで、そこがケブリーCadbury城と呼ばれていたと考えられる十分な根拠がある。」
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イングランドの南側にあったというケブリー城・・・
人工の土塁で囲まれたこの場所は、この一帯で最も大きな丘の上の砦だ。考古学的な証拠によれば、アーサーが統治していた5世紀、ここには大きな、見事な建物が造られていた。それがキャメロット城だったのだろうか?
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山地の多いウェールズの北西のディーナスブランドには、もっと新しい時代に造られた城の跡がいくつか残っている。何人かの歴史家によれば、キャメロット城があった場所としては理想的だという。
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イングランドの中央にあるこれらの城は我々が持っているキャメロット城のイメージに近い。
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しかし、明らかに言える一つのことがある。後の世のアーサー王のサガ(歴史書)の作者たちは、キャメロットの城を夢のある姿で書き記しているが、それはアーサー王の時代の城からかけ離れているということだ。当時の城は丸太で作られ、木の柱で組まれた塀で囲まれていた。
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生活レベルは貧弱で、建設で使われた道具は原始的だった。もしキャメロット城が存在していたとすれば、それは無垢の木材の寄せ集めの構造物だったのだ。

伝説によれば、人生の最後の時、アーサーは妖精と共に船に乗り、神話の島アヴァロンに旅立つ。魔法の剣イクスカリバーや謎の城キャメロットと同じように、アヴァロンは実存したのか、それとも想像上の場所なのか、は誰も知っていない。アヴァロンがあった正確な場所は人々の記憶から薄れていった。
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伝説の島アヴァロンのイメージに合致する多くの場所がある。例えばコーンウォールの南のマイケルの丘がそうだ。ブリタニーの海岸の沖にあるこの島はアヴァロンなのか?
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勿論、その他にも多くのそれらしい場所がある。しかし、歴史家はアヴァロンの位置に関する重要な鍵が、その名前の中にあると考えている。
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歴史家アッシェ「アヴァロンAvalonと言う名はアプルappleやアプルプレイスapple placeを意味している。つまり林檎が育っている土地だ。神話上のアヴァロンは、林檎が豊富で、人々は不滅immortalで、妖精の住む場所だと考えられる。ある伝説によれば、そこはアーサーが最後の闘いの後に訪れた場所で、彼は今もそこで、不滅で、生き続けていると言われている。他の伝説によれば彼はグラストンベリーに埋葬されたのだから、丘が散らばっているこの辺りこそがアヴァロンだと言う。」

13世紀、グラストンベリーの僧侶たちは彼の墓の印を発見した。
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それには“ここにアーサーが眠る”と書かれていた。今日、これはグラストンベリーの墓を訪れる人々から料金を採ろうと狙った偽物だったというのが一般的な考えだ。アーサーと彼の騎士団は、英国が救援を求めてきたら直ぐに立ち上がれるように準備しながらエルドンの丘に眠っていると考えている人々もいる。
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アーサーの時代から5百年以上たった11世紀、フランスの影響を受けた英国の宮廷courtは興味深い芸術を創り出した。宮廷作家たちがアーサーと呼ばれる王と聖杯探索について書き始めたのだ。
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聖杯物語で書かれている、これから語る章には歴史的な証拠はない。全くの神話世界の話だ。伝説の円卓の世界だ。円卓は気高い騎士たちで囲まれていた。彼らは聖杯の探求に命を捧げていた。
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エリートの仲間に入るために、騎士たちは、新しい騎士道と価値観に合わせなければならなかった。
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歴史家クラウディン「当時は黄金時代で、正義と寛容な男たちの時代だったのよ。物事は平等に分配され、徳は敬われていたの。そして超自然的なものとの繋がりが大切で、そのことによって更に自分を高めていたの。(mh;異訳です!何を仰っているのか聞き取れません!)」
アーサーのお気に入りのランサーロットという名の騎士は、誰もが知る男だった。
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彼は完璧を目指す男で、神聖な目的のために身を捧げていた。しかし、ランサーロットも完璧ではなかった。伝説によればランサーロットはアーサー王の妻グイネビア王妃との激しい恋に落ちた。それは初めから、悪い運命に導かれた邪悪なロマンスだった。彼は聖杯の探求を投げ出してしまった。
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ランサーロットの裏切りはキャメロットの世界を混乱させた。情熱的で不法な恋は、徳と高潔を求める騎士道精神に反するものだ。この反道徳的行為は騎士道世界を脅かすものだった。キャメロット宮殿では、不忠義は最悪の犯罪だ。
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ランサーロットとグイネビアにとって、彼らの行為の結果は致命的だった。アーサーは妻に死罪を宣告した。
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ランサーロットは落伍者となり、騎士の社会から追放された。後悔の念に打たれたランサーロットは、イングランドの北にあるこの修道院で晩年を過ごし、そこはランサーロット修道院として知られることになる。
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アーサーはイエス・キリストと彼の使者たちを思い描きながら、彼の天命に従い続けていた。円卓の騎士たちは不思議な社会を構成していた。その第一の騎士として、アーサーは聖杯の探求を騎士たちに命令した。
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作家マルカール「みんなが王の右手に座っていた(mh誰もが同じ立場だったという意味のようです)。そして誰もがこの社会の中での自由を持っていた。それは階級がない社会を創ろうとする試みだった。完全に理想的な、完全にユートピア的なものだ。それはまるでアーサー王の伝説の作者たちが人間社会の中での兄弟的な関係や、各自が自由に振る舞っても全員が集団を維持する社会が可能であることを示そうと望んでいたかのようだ。」

しかし、円卓の騎士たちを形成することをアーサーに決断させたのは何だったのだろうか?
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物語が書かれた時、ヨーロッパは悲惨な敗北を受け入れることを強いられていた。聖地エルサレムがついにイスラム教徒たち侵略者の手に落ちたのだ。屈辱を味わった十字軍は希望を失くして故郷に戻った。彼らの夢は崩れ、自信は揺らいでいた。人生に新たな価値を必要としていた。彼らは、それを聖杯の探求の中に見つけたのだ。
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アーサー王と円卓の騎士たちは聖杯を見つけることはなかった。もし聖杯がヨーロッパに辿り着いていたとしたら、今どこにあるのか?

ローマで見つかる記録によれば、聖杯は3百年間、イタリアにあったという。聖ローレンスという僧が保管者だった。混乱の時代、彼は盗難や破壊から聖杯を守っていた。3世紀の終わり頃、聖ローレンスは聖杯を、イタリアからスペインのピレネーの東側の彼の故郷に持ち出したと考えられている。
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ピレネー山脈の急斜面の下には沢山の洞窟があり、そこに隠されたのではないかと考えられている。隠すには完璧な場所だ。山は自然の障害物だ。
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この時点以降、曖昧だった聖杯の歴史は、より正確な追跡が可能になる。

歴史家シャーファー博士「もし、我々がこの場所から聖杯の旅を辿るとすれば、中世からローマ、ローマからここピレネーのウイスカ、ここから南の山岳斜面で孤立した場所、だ。その可能性は高い。というのはこの辺りで難民が見つかっているのだ。」
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中世において、新しい信仰がピレネーの両側から現れ、これが人々の巡礼を動機づけた。高地の峠を越えて巡礼路が造られるようになった。サンティアゴ・デ・コンポステラSantiago de Compostelaへ続く道だ。
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(mh:巡礼路の地図を挙げておきましょう)
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古代のこの巡礼路は今日でも使われていて、ヨーロッパ中から信者を惹きつけている。沢山の教会が巡礼路に沿って点在し、過去からの物語と共に巡礼者たちを魅了している。
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神聖な物語の中の聖杯はこの地で大切にされていたのだろうか?

12世紀の始め、十字軍の遠征隊は崩壊していた。
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伝説によれば聖地から戻って来た兵士たちはキリストの血が入っているという不思議な瓶(びん)を持ち帰った。
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この容器が聖杯なのだろうか?
作家マルカール「西暦1200年頃、全質変化(注)の教義は教会によって承認されていた。従って、杯の中のワインは正にキリストの血で、聖杯ロマンスは夢物語ではなかった。従って、他の場所でも聖杯ロマンスは生まれていた。後継者たちもその神学を受け継いでいった。こうして、元々は邪教徒のケルトから生まれた聖杯神話は、キリスト教徒の考えになり、聖餐(せいさん)での神聖な杯が生まれたのだ。」
(注)全質変化、化肉transubstantiation:
聖餐式の儀礼でふるまわれるパンとワインには、イエス・キリストの肉と血と魂と神性が変化して宿っているとされている。全質変化とは、その云われの理由となったプロセス。

しかし、誰もがローマの新しい神学を受け入れたわけではなかった。ローマから離れたピレネー山脈の麓の山にモンシガー砦が立っている。
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ここには難民だったと考えられているキリスト教の信奉者たちがいた。彼らはキャサラーズかピューアと呼ばれていた。キャサラーズはローマの考えを迷信的だと見なしていた。彼らは富の獲得に染まっていたカソリック教会の聖職者を排除し、代わりに貧困と単純な信仰への回帰を説いていた。
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伝説によれば、キャサラーズは秘密の宝物、恐らくは聖杯、を守り、モンシガー砦に隠していた。

異端者キャサラーズを壊滅するため、ローマ教皇は十字軍を派遣した。西暦1244年の春、2百人以上のキャサラーズは火炙(あぶ)りによって殺害された。それは、聖杯がより安全な場所に移される前の出来事ではなかった。
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今日までキャサラーズが守っていた宝物が聖杯だという証拠はない。包囲された砦から、どんな方法でその宝物が持ち出されたのかについても謎のままだ。
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スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに続く巡礼路に小さな教会がある。その棚には何世紀もの間、聖杯があったという。
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12世紀、多くの聖杯ロマンスが書かれた。1210年、ドイツ人のナイトテンプラー(テンプル騎士団)のバルフ・フォン・アシェンバッハはモンシガーへの冒険に関する美しい詩を書いた。
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彼は聖杯を、不思議な力をもつ石だと考えていた。“豊富な角”の神話のように、この石は食べ物と永遠の若さを与えてくれた。彼の知識はキヨトと呼ばれる男から得たものだと考えられている。キヨトはギエムの別の表記だ。我々はこの不思議な名前を持つ人物を探し出そうと思った。その追跡は我々をスペインのトレドに導く。
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トレドは当時、科学と文化の中心地だった。何世紀にも渡る遺産は、町の大聖堂に残されているアラビア語、ヘブライ語、ラテン語で書かれた記録や本古文書の中に集められていた。
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その中に聖杯の物語を初めて書き記した作家の証拠があった!12世紀の書類の中で、我々はフランス南部出身の代書人を見つけた。
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彼は、“ナボンのギエム”と言う名で署名していた。ラテン語ではナベロン・インスキロウムだ。もし彼が全ての情報の出所元だとすれば、彼こそが聖杯の元々の物語の作家で、不思議なキヨトに違いない。書類はアルフォンセ1世の妻ウラッカUrraca王妃の命令で書かれたものだった。
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12世紀の中頃、アルフォンセ1世はアラゴンとネヴァラを治めていた。聖杯への尊敬が最初に最高潮に達していた時期だ。キヨトの記録に従い、我々は更なる手掛かりを求めて東スペインに向けて旅を続けた。これは小さな町ウエスカにあるサン・ペドロ・オヴィアホ教会だ。
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アルフォンセ1世は静かに瞑想するため、この地を度々訪れていた。この地でも聖杯は長い間、敬われていたことを我々は知っている。アルフォンセ、ラテン語でアンフォーティエスという名はアンフォータスと関係がある。そしてアンフォータスは聖杯物語の中の王の名だ。アラゴンとネヴァラの王は聖杯の守護者の歴史的な人物モデルだったのか?支配者自身や彼の王国が聖杯の伝説の中で生き続けていたのだろうか?
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更にもう一つの類似性がある。アルフォンセ1世が致命的な傷を癒そうとして人生の終わりに城に戻ると、聖杯王のアンフォータスが終わりの無い苦しみから救い出される時を待っていた。彼らに救済をもたらすことが出来る男が一人いた。後に聖杯の保護者となるパーシヴァルPerchevalだ。パーシヴァルは、聖杯物語の中で、アンフォータスの不思議な城を見つける前に何年もの間、旅をしていた。
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パーシヴァルの名は、我々を再びスペインに引き戻す。スペイン人の伯爵が騎士パーシヴァルのモデルだったかも知れない。
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伯爵は王の従弟で、パッシュ・ダバー、又はパーシヴァルPerche valという異名を持っていた。そして、彼は伝説上の人物ではなかった。彼の名はこの家系図に現れている!
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しかし、聖杯物語で現れる場所との関係はどうだろう?見捨てられたこの礼拝堂には、武器のように掲げられた十字架が壁に刻まれている。
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それはエルサレムで神聖な遺骨箱を守っていて、聖杯の保護者になったテンプル騎士団の象徴だ。

歴史家シャーファー「ここで私たちはある素晴らしいものを見つけた。聖杯城と関係でパーシヴァルも使っていたと言われる、いくつかの庵(いおり)の跡だ。庵があるということは、聖杯城もあったということだ。」
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聖杯城はこの近くにあったと考えられている。自然の中に潜み、簡単には見つからない場所に。我々は半径20Kmの範囲でそれらしい場所を探した。中世においては、城は力と支配の象徴だった。それが遠かろうとも、尊敬を集められる場所に建てられていた。
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歴史家シャーファー「城は遠く離れた所からでも眼につく場所に建てられた権力の象徴の建物だった。しかし、城を探すのが不可能で、見ることができないとなると、それはあまりに逆説的で矛盾している。これらを考慮し、中世の人々に対する強い印象から考えると、見ることが出来ない城とすれば想像することすらできない。しかし、物語は全て意味がない空白でわずかな真実さえも含んでいないとは思えない。どこへ続いているのか全く分からない道をさまよい歩いていたら、突然、目の前に城を見つけるということなのかも知れない。」

スペインのピレネー地方の人里離れた谷間に、完璧に隠れている城がある。聖杯城サン・フォアン・デラペイのような修道院だ。
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致命的な傷を負ったアルフォンセ1世が連れていかれた場所だ。内庭は印象的だ。
歴史家シャーファー「ここの石碑には興味深い模様が刻まれている。キリスト教の象徴として錨(いかり)が使われる。パーシヴァルも城で象徴として使っているが、ここでは墓が掘り返されないように配慮したからではないかと考えている。(??)」
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スペインのバルセロナの図書館の台帳には聖杯に関する更なる証拠がある。砦のような修道院と、そこに保管されていた贈り物に関する記録だ。贈り物については、半分はスペイン語、半分はラテン語で記されている。カレス・ラパ・ディウムChalice lapa Deum、つまり“石の杯”だ。
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この石の杯はサン・フォアン・デラペイの礼拝堂にあったと記されている!

サン・フォアン・デラペイ大修道院の最も古い場所には、岩から削り出された洞窟がある。聖杯を隠すには理想的な所だ。
歴史家シャーファー「我々は聖杯が、この場所に保管されていたと考えている。岩壁に彫られた部屋の祭壇に。」
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バルセロナ図書館の台帳の中で言及されていた礼拝堂は、この洞窟の上に造られていた。造りはまるで寺院のようだった。この洞窟が、パーシヴァルが捜し続けていた部屋だ。聖杯に関する書物で城の中の寺院と表記される場所だ。

物語によれば、多くの冒険の後、パーシヴァルがとうとう聖杯城に辿り着いた時、彼は聖杯を掲げながら歩く人々の行列を目撃していた。行列を率いていたのは聖杯をもつ巫女(みこ)だった。
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彼女の後ろの侍従は、キリストの脇を刺す時に使われた銛(もり)を持って従っていた。刃からは血が滴り続けていた。
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女の侍従もいた。彼女は、洗礼者ヨハネ(ジョセフ)の頭が置かれていたと思われる大皿を持っていた。
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この時、パーシヴァルは傷ついたアルフォンセ1世を苦悩から救済することはなかった。アルフォンセがこの城を3度目に訪れた時、パーシヴァルは救済を行った。
歴史家シャーファー「ここが聖杯の行列が通っていた場所だと言われている。巫女は聖杯王アンフォータスの前に聖杯を置いた。」
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「王が退位するとテンプル騎士団が聖杯を保護した。つまり、ここが、今も伝説の中で存在している聖杯城サン・フォアン・デラペイの物語が歴史の中で始まった場所だと我々は考えている。」

我々は、聖杯探求の旅の終りに近づいている。我々の旅の最後の目的地はスペインのバレンシア(mh地中海岸の都市)だ。
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大聖堂の脇にある礼拝堂にはカピラ・デル・サントカリーという名前が付いている。“聖杯の礼拝堂”だ!
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カソリック教会は、聖杯が神聖な物語のものであると公式に認めてはいないが、聖杯はこの地でおよそ6百年の間、崇(あが)められている。祭壇の上方には防弾ガラスで保護された祠(ほこら)がある。その中に、バルセロナ図書館の書類の中で語られている容器がある。カリス・ラパ・ディアム、石の杯、つまり聖杯だ。
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考古学者アントニオ・ベルトランは杯を調査し、そのルーツを追跡することが出来る。
ベルトラン「今日、我々が目にしている杯はサン・ホアン・デラペニアで組み立てられたものであることは間違いない。黄金細工は恐らくビザンチンの職人の仕事だ。上方の容器は中近東で造られたものだ。恐らく、アレキサンドリアかアンティオクで造られた物だろう。考古学的証拠から、紀元前1世紀後半から紀元後1世紀前半の作品であることは間違いない。下側には石で造られた脚部があるが、そこにアラビア語が書かれている。それは間違いなく、この杯がサン・ホアン・デラペニアに届けられる前に書かれたものだ。」
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聖杯物語によれば、奇妙な表記 “ラプシット・イクセレス”が現れた時、かろうじて読み取れるアラビア文字の言葉の意味は分かっていなかった。

パーシヴァル物語の中で、ヴォールフレンは聖杯を“ラプシット・イクセレス”と呼んでいた。これが偶然とは思えない。彼が聖杯だと書き記した石はバレンシアの聖杯の石の脚部だったのだ!
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我々は旅の終わりに到達した。聖杯探求の旅はこれで終わりだ。この旅は我々を東から西に、ケルト時代からキリストの時代に導いた。しかし、我々の物語には現実の結論はない。聖杯は、寓話(ぐうわ)と現実の間で、幻想と歴史の間で、ぼやけたまま永遠に明確に見えてこないだろう。
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聖杯は、人によって異なる意味を持ち続けるだろう。明らかな事は、最初に物語が書かれて8世紀以上もたった今日でも、聖杯とアーサー王は我々の想像を掻き立て続けているということだ。聖杯探求はこれからも続くのだ。
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Discovery Channel The Holy Grail
http://www.dailymotion.com/video/x2jbdux

で~皆さんは、聖杯伝説とはどんなものか、お分かりいただけたでしょうか?5世紀のイングランド人だと言われる不可思議な男アーサー王の物語が世に広まると、聖杯Holy Grailがヨーロッパに知られるようになったっていうんですね。で、このアーサー王の居城キャメロットは、どこにあったのか、分かっていないんです!聖杯物語を文字道理に理解すれば、アーサーは死者の国に旅立ち、魔法の剣イクスカリバーを岩から引き抜いて全能の力を獲得し、ケルトの攻撃からイングランドを守ったっていうんですねぇ。

聖杯とか魔法の剣イクスカリバーとか、魔力を持つ品物で、ふと三種の神器を思い浮かべました。

Wiki三種の神器
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。
三種の宝物とは、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。

で~この三種の神器は壇ノ浦の闘いで源氏に追われた6歳半の安徳天皇(あんとくてんのう)がお付きの女に抱きかかえられ船から身を投げた時に海底に沈んでしまうのです。勾玉と鏡は源氏の兵士によって引き揚げられたものの、剣は見つからなかったようです。そうじゃあない、全部見つかったって話もあるらしいですね。この剣は、スサノオ(素戔嗚尊)が出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時、尻尾から見つけた物だって言われています。

三種の神器は皇位継承における重要な神器ですが、その出所も不可解で、天皇すら見たことがないとなれば、聖杯Holy Grailの存在も胡散臭いと思いますが、聖杯の話がヨーロッパでは持て囃(はや)されていたということは、キリストに関する事象をパロディだと考えることがタブー視されているのじゃあないかと思います。日本の天皇についても、あまり深く考えると、右翼や、靖国参拝を続ける国会議員から非国民呼ばわりされたりして馬鹿らしいから、真面目に取り上げて議論する風潮はありません。

しかし・・・聖杯のありかを探求questするYoutubeを何本か見た感想ですが、現代のキリスト教徒はイエスの血を受けた聖杯の存在を真面目に信じているようには思えませんでした。mhは三種の神器が今もあるのかどうかなど、全く関心がありませんでしたから、およそこの種の話は、神話とか伝説とみなされるのが一般的だと思いますが、世の中には、そう考えない人が結構大勢いて、魔力を秘めた聖杯や三種の神器が、今も、ある場所に実存すると信じているとすれば、それはそれは恐ろしいことだと思います。
(完)

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