Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

銀のファラオの不思議


前回のブログ「ピラメスの不思議」で、ピエール・モンティ氏Pierre Montetはナイル・デルタの町タニスTanisでとんでもない勘違いをしたが、その時、銀のファラオを発見していたとお伝えしました。

銀のファラオとはどんな人物か?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

勿論、このファラオはラムセスや彼の都ピラメスと全く関係ありません!って言うと思ったでしょ。ところが、全くその逆です。大いに関係あるんですねぇ。

勿論、ピラメスだと勘違いしたモンティが発掘を進めたタニスTanisが、やっぱりピラメスだった、ってことじゃあ決してありません。しかし、銀のファラオはピラメスやラムセス二世と強い関係があるんですね。だから、ピラメスの残骸が見つかった町タニスで発見されることになったんです。

で、銀のファラオとは一体全体、何者なのか?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

これ以上、堂々巡りをしていると読者諸氏から“いいかげんにしろ!”ってお叱(しか)りを受けるでしょうから、さっそくYoutube「The Silver Pharaoh」をご紹介いたしましょう。
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5千年以上の間、墓盗賊たちはエジプトの古代のファラオの墓を略奪していた。20世紀までに考古学者が発掘した全ての王室の墓は盗難に遭っていた。たった一つを除いて!
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(mh:1922年にハワード・カーターが王家の谷で見つけたツタンカーメンの墓も盗掘されているのです!宝石の一部などが抜き取られていました。副葬品自体は幸い無事だったのです)

その墓には想像を超える絶品が残されていた。ファラオの棺(ひつぎ)だ。
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全て銀で造られ、ツタンカーメンの墓で見つかった宝に匹敵する。しかし、その発見は第二次世界大戦で破壊される恐れがあった。
エジプト学者サリム・クライム「このような素晴らしい発見が、悪い時期に行われたなんで、信じられないわ」
想像を絶するこの発見は解明されないままだった。しかし、今、専門家チームの調査によって銀のファラオは姿を現した。彼はエジプトの歴史の中で最も混乱していた時代を生きていたのだ。

考古学者ピーター・ラカヴェラ博士「当時は内戦があり、国は南北に分断されていた」
専門家チームは、墓と、それを囲む見事な都市を再調査し始めた。
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ファラオの遺骨を初めて詳細に調べた結果は驚くべきものだった。
解剖学者フォージ・ガバラ博士「私の調査で、新たな発見があった。言葉に出来ない程、興奮している」
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専門家チームは、最初に墓を発見した発掘隊が見つけた遺品からエジプトの歴史の中でも最も不可思議な時代における謎を覆っているベールを取り除くため、素晴らしい宝物が秘めているメッセージを解読しようとしている。それは銀のファラオの時代からのメッセージだ。
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1940年2月、アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで流血の火ぶたを切って落した。戦争における最初の残虐な一撃は、直ぐに世界を包み込んでいくだろう。
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同じ時期、エジプトはまだ戦場から隔離されていた。ナイルに近い発掘現場では、フランスの考古学者チームが10年以上に渡る発掘作業を続けていた。彼らは戦争が本格化する前に仕事を完了させようと必死だった。
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チームを率いていたピエール・モンティ教授は、驚くべき発見を既に公表していた。ほとんどの人が知らない時代のファラオを見つけていたのだ。
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彼がここで発見したものは、古代エジプトの歴史を書き変えるだろう。彼は紀元前1千年頃の、エジプトの歴史における最も不可解な時期を解明する手掛かりを探し当てていた。それは短期間ではあるが、古代エジプト3千年の歴史における暗黒時代だった。
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エジプトの偉大なピラミッドは、第4王朝と呼ばれる時代、ファラオのクフによって建てられていた。第18、19王朝のツタンカーメンやラムセス大王といった最も知られているファラオは、クフより1千年以上も後の時代にエジプトを統治していた。最後のファラオのクレオパトラは、更に1千年後に統治していた。
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ピーター・ラカヴェラ博士はエジプト学者で、膨大なエジプトの歴史を紐解くため、記録資料やヒエログリフなどの証拠を活用している。
ピーター「もし時間軸に沿ってエジプトの歴史を考えるなら、ピラミッドを造った人物たちよりもクレオパトラが我々にとって一番身近な存在だ」

歴史学者たちは、エジプトは少なくとも170人のファラオによって統治されていたと考えている。その数からして、全てのファラオについて確認するのは困難な仕事だ。
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70人のファラオの墓は今もって発掘されていない。彼らの墓は、現代の都市ルクソールLuxor、古代のテーベにある王家の谷か、現代のカイロにある古代の首都メンフィスMemphisか、ひょっとするともっと北の、ナイルが支流に分かれて海に向かうナイルデルタなど、ナイルの近くにあるエジプトの古代墓地のどこかにある。
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エジプト学者にとって、政治的な混沌や対立があった時代を調べ、その空白を埋める作業は特に難しい。今日では中間期Intermediate Periodと呼ばれる5百年の間、対立する統治者たちは支配を巡って戦っていた。それはエジプトの暗黒の時代だった。
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ピーター「中間期には経済の崩壊、内戦があり、帝国は南北に二分され、外敵侵略の恐怖もあった。こうした国内の不和は考古学者たちにとっては都合が悪い。偉大な記念碑は建てられることがないし、歴史的出来事を記録したものや、個人を讃える石像も造られることがなく、人々は生き残ろうと右往左往していた時代で、考古学調査を進める上での手掛かりが少ないのだ」
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考古学的証拠の欠乏は、その時代を研究するには、更に多くの調査が必要だということを意味する。しかし、世界でも良く知られている物語の中で手掛かりが見つかることもある。
旧約聖書の中のデイビッドとゴリアテの闘いは、エジプト暗黒時代の紀元前1020年頃だと学者たちは特定している。聖書では、この時代の紀元前950年頃、ファラオが聖なる地イスラエルを侵略したと記している。
ピーター「この壁には旧約聖書でチューシャックと記されているシェションク1世(Sheshonk I)がソロモンの寺院に忍び込み、契約の箱をエジプトに持ち帰ったと書かれている」
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聖地におけるエジプトが関係する思わせぶりな物語は、ピエール・モンティの関心を捉(とら)えた。
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1928年、彼はナイルデルタのタニスで発掘を開始した。そこは既に別の考古学者たちが発掘を終えていた場所だった。しかし、重要なものがまだ砂の中に埋められているとモンティは考えていた。
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彼の感が正しかったことは直ぐに証明された。1930年代を通じ、彼は巨大な寺院の残骸を掘り当てた。石に残されていた記録はエジプトの最高神アムンを祀る寺院だったことを示していた。寺院複合体は煉瓦で造られた重厚な壁で守られていた。
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そこには発見されるのを待っている墓があるかもしれない、とモンティは考えた。ハリウッドは、失われた契約の箱がタニスに埋葬されているのではないかとすら想像していた。そして、インディアナ・ジョーンズのように、モンティはナチスNazisの恐怖にも対応しなければならなかった。
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モンティがエジプトの砂漠で調査をしている間、ヨーロッパは戦争の瀬戸際にあり、アドルフ・ヒトラーが、いつでも突撃隊を派遣できる状態で威圧していたのだ。
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考古学者サリマ・イクラム教授「モンティは、とても沢山の、彫刻された寺院建造用部材とかそういう物を見つけていたけど、世界の注目を浴びる、本当に素晴らしいと言えるものは、まだ見つけていなかったの。そこに持って来て、ヨーロッパでは戦火の足音が迫っていたから、いつも落ち着かなくて、研究に集中できる状態じゃあなかったのね。だから彼は、当時、信じられないほど緊張していたはずよ」
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タニスにおけるモンティの発掘が、寺院複合体の全体に関して完了しようとしていた時、発掘チームが泥の煉瓦壁がある場所を掘り当てた。
サリマ「彼らは、寺院の南西の角地のこの場所で発掘していて、巨大な墓地複合体の天井を掘り当てたの。」
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「その時、考古学的な偉大なものかもしれないと思ったモンティの心臓は烈しく鼓動していたはずよ」
モンティは直ぐに天井に明けた穴から墓の中に入って行った。暗闇の中で、彼は一連の墓の概要を理解することが出来た。
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しかし、心配していた最悪事態が直ぐに確認された。
サリマ「この部屋に入って来た時、モンティは気落ちしたはずよ。何故って、部屋には、あるはずのない穴があって、彼がやって来る前に墓泥棒がここに入り込んでいたのが間違いなかったからよ」
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そこは紀元前850年頃の王室の墓だった。
サリマ「壁に残されている記録によれば、この墓はオソルコン2世(Osorkon II)のものよ。彼は第22王朝のファラオだったの。彼の親族も、ここに埋葬されていたの」
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「だからここは、重要な場所で、意義のある発見だけれど、とても完璧な王室の墓とは言えない状態だったのよ」
モンティは、まだ荒らされていない墓が見つかるチャンスは少ないと感じていた。
(mhピエール・モンティの実物写真です)
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完全な状態のファラオの墓を見つけた考古学者はいなかった。しかし、彼は調査を放棄しなかった。
サリマ「モンティは発掘作業者たちに範囲を広げて発掘するよう指示したの。そしたら見つけていた墓から3mの所で新しい発見があったのよ!」
信じられないことに、彼らは荒らされた墓地複合体の直ぐ隣で第二の墓地複合体を見つけた。
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モンティは信じられない気分だった。今度の墓は完全なようだ。
墓泥棒が見過ごしている可能性はあるのだろうか?
サリマ「墓泥棒たちは第一の墓地複合体での盗掘に成功したので、数m離れた所にあった墓を見逃してしまったのよ!多分、彼らはここに大きな墓があるなんて考えてもいなかったのね。でも驚くべきことよ。だって、墓泥棒たちって、地形を把握する能力が強くて、考古学者たちよりもずっと上手に墓を探し出すことができるんだから、その彼らが見落とした墓をモンティが掘り当てるなんて驚きとしか言いようがないわ」
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モンティは、誰が埋葬されているか全くわかっていなかった。しかし、前室に入ると、答えが現れて来た。
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サリマ「モンティがここに立った時どんなに興奮していたか想像してほしいわ。壁に王室の名前があるのよ。“パン・バーク・パースン・ミューツ”っていうのは“星が、神アムンが愛する町で輝いている”って意味ね。」
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「そして彼は、別の王室の名前も見つけたの。それは間違いなく王室の人物の名前よ。“神アムンによって選ばれた偉大な者”ってあるわ。つまり、この場所はファラオの墓ってことよ。状態は完璧だったみたいね。そして、そのファアオの名はギリシャ語でスセネス1世(Psusennes I)として知られているの」
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モンティは、スセネス1世についてほとんど知っていなかった。大勢いるファラオの中でも、どんな生活をし、どんなことを成したのか知られていない人物の一人だ。
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彼は中間期に生きていた。
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エジプトの暗黒時代で、権力は2人の統治者によって二分されていた。スセネスはこの混乱が始まった時代、デルタの都市タニスから北エジプトを統治していた。

しかし、南エジプトの実権や富は、古代の首都テーベにあった。
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記念碑的寺院や財宝をもつテーベの統治者が南エジプトを管轄していた。
(mh;中間期には、エジプトはメンフィスMemphis辺りで南北に分割されていて、ナイル上流側はテーベThebesを首都とするアメン大司祭国家Theban High Priests of Amunが、ナイルデルタ一帯はタニスTanisを首都とする第21王朝が、それぞれファラオを設けて併存していました)

北エジプトの王はどんな人物だったのだろう?戦闘王とか重要な王だったなら歴史に名を刻んでいるはずだ。もしスセネスの墓が完璧に残っていたら、モンティの発見はエジプトの物語にぽっかりと空いていた空白を埋めることが出来るかも知れない。
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墓室への入口は、大きくて固い花崗岩のブロックで完璧に塞がれていた。ブロックを削り、穴を明ける、忍耐のいる作業が続いた。そして6日後、モンティはやっと墓室に入ることが出来た。そこには彼が期待していた全てがあった!
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サリマ「モンティは、墓が千一夜のような素晴らしい富で一杯だったと言っているの。きっと、そうに違いないわ。だって、床には沢山のフィギュリーン(figurine人形)や宝石や、貴金属があったのよ」
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モンティは、3千年前に財宝がこの墓に仕舞われて以降、自分がそれらに触る最初の人物だと気付いていた。

モンティが墓に入って直ぐに撮影された写真は彼が見たそのものを示している。
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しかし、ミイラやそれを収めた棺(ひつぎ)が見当たらないようだ。それはファラオの墓の典型的な所、墓室を埋め尽くすほどに巨大な石棺の中にあった。石棺には彫刻が施されていて、ヒエログリフで覆われていた。今日、その巨大な蓋は、ここエジプト博物館で展示されている。
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巨大な石棺の中には別の石棺があった。これも装飾が施されていた。
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モンティたちはファラオの本当の棺(ひつぎ)を見ようと、花崗岩の蓋を注意深く持ち上げた。

この発見がニュースになると、モンティは重要な訪問者を迎えるようにとの連絡を受けた。エジプト王本人だ。
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モンティはエジプト王が信じられないような素晴らしい発見を全て見るまで、最も重要な発見であるスセネスの棺を封印したままで残しておくことに同意した。王はモンティの調査行為を完璧に支援していた。王は探検者の服装で発掘サイトを訪れた。
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モンティは、王に、3千年前にエジプトの王だった男のサインとも言えるカトゥシュを指し示した。
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しかし、エジプト王ファールーク1世は財宝を見たがっていた。彫刻に関心はなかった。王は、他の発掘サイトでしばしば感じたものと全く異なる特異な雰囲気があることに気付いていた。そして彼は失望することはなかった。
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棺は人間の形で、よく見つかる黄金ではなく、銀を鍛造して造り上げたものだった。このような棺は、それまで、また、それ以降も見つかってはいない。そこに横たわっていたのは、エジプトの混乱の暗黒時代に生きていた、ほとんど知られていない統治者だ。しかし彼の墓とその絢爛(けんらん)は大きな権力を持つファラオだったことを示していた。
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銀の棺の中にあったものは、このファラオが誰だったのかという謎を深めることになった。ミイラが着けていた“死の面Death Mask”は金塊で造られていた。
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とりえのない時代の戦士王でもないし、地域の権力者でもなく、巨大な富と権力を持っていた人物のはずだ。
ピーター「黄金や銀だけではなく、沢山のラピスラズリも発見された。全て5千Km離れたアフガニスタンから輸入されていた貴重品だ。」
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「だから信じられないほど高価で、信じられないほど価値が高いものだった」
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財宝にはパラオのカトゥシュが刻まれていた。星はタニスの町の上空で煌(きら)めいているスセネスを表わしている。
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これらの価値は金属の重量だけで単純に決まるものではなく、職人の質も考慮されねばならない。
ピーター「見事に製作され、見事にデザインされた、間違いなく、その素晴らしい美しさを正当に評価できる個人のためのものだ」
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見つけた財宝を注意深く調査するため、モンティには数か月が必要だった。しかし、彼はその贅沢な時間を持つことは出来なかった。

彼は人生で最大の発見をした。しかし、時期が最悪だった。彼の母国があるヨーロッパでは、ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫っていた。侵略は数週間のうちに行われる!ナチスの攻撃はいつ起きても不思議でなかった。
モンティは心臓が張り裂けるような決定をすることになった。妻と小さな3人の娘は彼と共にエジプトを訪れ、新たな発見のたびに家族全員で喜び合っていたこともあった。しかし、今、彼らはフランスに戻っている。自分だけ残り続けて仕事を完了すべきか?それとも仕事を止めて家族の元に戻るべきか?
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モンティは決断するまでに時間を使うことは無かった。財宝を箱に仕舞い込むと、発掘場所を閉鎖するよう指示した。仕事は停止され、彼はフランスの家族のもとに急いだ。その時、第二次世界大戦は始まったばかりだった。5年間は、エジプトに戻れないだろう。
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財宝は直ちにカイロに移され、博物館の倉庫に保管された。それは考古学における重大な瞬間のひとつだった。その時、モンティによるスセネスの発見は世に知られる機会を失ったのだ。
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サリマ「ヨーロッパは戦争に突入していて、エジプトでの考古学的な発見に注意を払う人などいなかったの。そのため、今日でも私たちはモンティの素晴らしい発見について、ほとんど知っていないのよ。」
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ツタンカーメンが20年早く発見された時、世界中でトップニュースになった。彼のミイラが詳しく調べられた時、そこにはカメラが持ち込まれていた。
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それはカイロ大学の解剖学教授ダグラス・デイリーが指導した壮大な出来事だった。
(mhデイリー氏は左から2人目です)

1940年、デイリー教授は別の招待を受けた。北エジプトで見つかった興味深い発見物を調べるよう要請されたのだ。スセネスという名の、よく知られていないファラオの遺体、または少なくとも彼の一部だ。
サリマ「スセネスはナイルデルタに埋葬されていたの。とても湿度が高く、湿った環境の場所よ。他のファラオたちは王家の谷に埋葬されていたけど、そこは砂漠の中にあるの。デルタに埋葬されると、湿っているおかげで、遺体は分解されやすいのよ。だから、デルタに埋められていたミイラを調べるのはとても大変なの」
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デイリーは、今日から見ると、かなり簡単な検査をしていた。簡単に、スセネスは老人になって死んだとだけ報告していた。しかし、もっと重要な証拠を見逃していた。
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デイリーが検査を終えると、遺骨は再び埋葬されることになった。王室の墓ではなく、大学の古物倉庫の奥深くに!
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3千年も墓に入っていたスセネスの遺骨は、更に70年の間、調べられることもなく、公開されることもなく、倉庫に仕舞われ続けていた。しかし、今、デイリー教授の後継者で解剖学者のフォージ・ガバラ博士が、骨の検査を再開した。
ガバラ博士「私は言葉で表現できない程、感激している。この骨の詳細について公表されている資料はない。」

最初に行われた検査の証拠は残っていた。小さな骨はデイリー教授の古いタバコケースの中に仕舞われていた。
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柔らかい遺留物は捨てられていたが、スセネスの骨は、彼がどんなファラオだったのかについて多くの情報を提示していた。彼は立つと5フィート半(165cm)近かった。体のつくりは頑強(がんきょう)だった。
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デイリーも書き残しているように、スセネスは年を取ってから死んだ。平均寿命が35歳くらいだった時代だったが、彼は多分80歳に近かっただろう。歯の摩耗wear and tearは“ピニオン?”が在ったことを裏付けている。
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しかし、ガバラ博士の調査の結果、驚くべき新たな情報が王の背骨の部位である7つの頸椎(けいつい)から現れた。
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ガバラ博士「これは私の検査から現れた新たな発見だ。この脊椎(せきつい)は王が生きている時期に壊れ、曲がっていたようだ。デイリー教授は何もコメントしていなかったが私がそれに気付いた。これは“ショウファー・ディフラクション(?運転手回避?)”と呼ばれるものだ。つまりこの王は長く座っているタイプではなかったことを示している。このディフラクションは通常、上肢(じょうし)を使う激しい労働をしていたことを意味する」

スセネスの怪我の原因は今も判っていないし、不透明のままだ。しかし、他のファラオも烈しく働いたり運動したりしていたことが知られている。例えばツタンカーメンはチャリオットに乗って頻繁に狩りに出かけていた。そして、恐らく、その時の事故で足を折っている。トトメス3世(Thutmose III)はエジプトで偉大な戦士王の一人だ。闘いの日々を送っていた。しかし同時に熱心な庭師だ。外地に遠征すると珍しい植物を持ち帰り、王宮の庭に植えていた。

タニスTanisで何がスセネスを忙しくさせていたのかは謎だ。
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学者たちは今それを想像しているだろう。スセネスの破壊された脊椎(せきつい)は時間をかけて直っていた。しかし、背骨には慢性的な病の証拠があった。
ガバラ博士「この王は楕円形をしている背骨の靭帯(じんたい)の骨化の過程で、結合組織の病を持っていた(??)。デイリー教授もこれを指摘していたが、原因については無視している」
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スセネスの骨を初めて詳細に調べた結果は、彼の生活への洞察(どうさつinsight)を提供してくれた。そして、これまでで初めて、スセネスがどんな外見の男だったかを法医学芸術家が予測することが出来るようになった。
マリッサ「特に面白いのは、彼の頭を見ると、彼の右目の位置が左目と比べると少し高いことよ。眼窩(がんか)も右の方が高いわ。だから左の頬の骨も高いの。これは表情に反映されていたはずだわ」
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マリッサ・ドレインは表情特定心理学psychology of facial identificationの学位を取得していて、FBI(連邦捜査局)で法医学的再構築を研究していた。3千年前に死んだ男のスケッチは銀のファラオを甦(よみがえ)らせた。
マリッサ「スセネスよ。ここにいるのが!」
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マリッサ「彼は抜きん出て頑強な肉体を持ち、頭は大きくて体はかなり短いの。でも、体を、何か肉体的な運動で使うことにためらいは持っていないのね。更に、彼は沢山の上下の歯を失っているの。だから顎は、しっかり閉じることができて、ピーナッツを砕いているような様子をしているの。強い意志を感じさせる口の形で、何でもお見通しだよっていう感じの顔つきだったと思うわ」
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死が近い時期、彼は背骨に極度の痛みを感じていたはずだ。そして歯の膿瘍(のうよう;出来物)が激しかったので、上あごに大きな孔が出来ていた。
ガバラ博士「ここに膿瘍でできた空間がある。感染した上あごには孔があいている」
彼は少なくとも人生のある時期、大きな肉体的苦痛を抱えていた。しかし、彼の死について骨は何かを示しているのだろうか?
ガバラ博士「私が骨を調べた範囲では、死に至る明確な原因は見当たらない。狭心症とかいった病気で死んだのかもしれない。骨は彼がかかっていた病を示しているが、死の理由については語っていない」

医学的な履歴を持っていたのにも拘わらず、スセネスが極めて長寿だったという事実は“とにかく彼は強く生き抜いた男だった”とエジプト学者たちに語りかけている。
サリマ「彼が強靭な体をもち、長く生きたという事実は、間違いなく、統治者としての成功に貢献したはずよ。彼は、46年間というとても長い期間、必死に国を治めていたの。ツタンカーメンはティーンエージャーで死んでしまったわ。だからスセネスのような人物なら、何か偉業を成し遂げていたはずよ」
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46年に渡るスセネスの統治は、彼を、エジプトのファラオの中でも最も長いファラオにしている。墓から見つかった財宝や彼の体の遺物は多くの新しい情報を産み出してくれた。しかしなお、エジプト学者たちは、紀元前1千年頃の混乱の時代を理解するのに苦労している。
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スセネスのようなファラオたちは王国の南にいた強敵と権力を分け合わねばならなかった。
ピーター「この暗黒時代のエジプトの歴史が、ファラオたちが最も権力を得ていた時代の次に訪れたというのは皮肉と言える」
実は、スセネスを悩ませた混乱は、あらゆるファラオの中で最も権力があったファラオによって2百年も前に既に始められていたのだ。
ピーター「エジプトはラムセス二世、つまりラムセス大王の時代に最高潮に達していた。彼は多くの建造物を造った、エジプトの歴史の中でも最も偉大な建設者だった。それに、彼は百人を超える多くの子供を持っていた」
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ラムセスの前のエジプトには2つの拠点があった。テーベThebesとメンフィスMemphisだ。ラムセスの留まるところをしらない野心はナイルデルタに彼自身の全く新しい首都を造らせた。彼はそこをピラメスPi Ramesses“ラムセスの家”と呼んだ。しかし、新しい都市が将来のファラオたちにとって何を意味するのかを彼が見届けることは出来なかった。
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ピーター「ナイルデルタは、ラムセスが植民地化して彼の偉大な首都を造るまで、エジプトにとって本当に国境のような場所だった。都市の建設は、あたかも、何かを投げて釣り合いを失うようなものだった。ラムセス大王のように強大な求心力をもつ統治者は体制を堅持できたが、力が弱い統治者ならナイルデルタはエジプトの領土ではなくなっていただろう」

テーベやメンフィスに次ぐ第三の権力拠点を造ることで、ファラオは政治的な抵抗の余地を産み出してしまっていた。そして、事件はテーベで始まった。
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ファラオに挑戦できる力を持つただ一人の人物は、カルナック大神殿を管轄するエジプト最高位の祈祷師だった。
ピーター「高位の祈祷師という言葉は誤解を生みやすい。何故なら彼は、単なる宗教家ではなかったからだ。彼は寺院を通じて事業をしていた。重要な政治的なリーダーで、軍隊に命令することすらできた」
祈祷師たちは、死んだファラオの記憶を生き永らえさせるため、予めファラオから十分な報酬を得ていた。
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ピーター「王は寺院よりも国を重視していた。一方、寺院で暮らす祈祷師は、王の魂を維持し、王の建てた記念碑を維持し、王の記憶を生き永らえさせていた。それこそがエジプト王の基礎になるものだったのだ」
サリマ「王は祈祷師たちの歓心を勝ち取るため、彼らに魚釣りや狩りをする権利を与えたの。鉱山で採掘する権利やナイルに沿って交易する権利すらもね。だから彼らは沢山の富を得ていったのよ」
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ピーター「彼らは時代と共に、どんどん豊かになり、ついには、なぜ我々が王になってはいけないのかと考えるようになったのだ」

スセネスの統治が始まる少し前の時代、高位の祈祷師たちは権力を求める行動playに出た。
ピーター「この壁には、高位の祈祷師がファラオとほぼ同じ大きさで描かれている」
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「他の祈祷師たちは、高位の祈祷師の足元で、背が低く描かれている。それ以前のエジプトでは、相対的な立場を示すため、どの祈祷師もファラオより背が低く描かれていた。しかし、この絵で判るように、高位の祈祷師はファラオと同等の多大な権力を得ていたのだ」

祈祷師たちが彼らの権威を表面に押し出し、エジプトが二分割されると、5世紀続く混沌(こんとん)の中間期が始まった。高位の祈祷師はエジプトの南を手中にし、ファラオは前衛地frontierである北のデルタに追いやられてしまった。北と南のチェック・ポイントはメンフィスに近いナイル上に設定された。
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とすれば、スセネスは、どんな手法で北の狭い一帯を王に相応(ふさわ)しい領域に変えていたのだろう?

調査員たちは、その手掛かりを見つけようと、スセネスの墓で見つかった財宝を調べ直すことにした。重要な証拠は、パテラと呼ばれる、小さな、重要とは思えない銀の皿に刻印されていた。
考古学者たちは、直ぐに、星と鳥が描かれたスセネスの御馴染みのサインに気付いた。しかし、このカトゥシュには、更に多くの絵文字が並べられていたのだ!
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ヤスミン「パテラに刻まれたカトゥシュの説明は“完璧な神、二つの土地の王、高位の祈祷師アムン、神々の王、アムンに愛されるスセネス”と読めるわ。これが重要なのは、スセネスが北部における高位のアムン神の祈祷師という肩書を持っていたという事実が判るからよ」
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彼が権力を持っていたことを理解する鍵はハイログリフの中にあったのだ。スセネスはファラオ以上の男だった。高位の祈祷師でもあったのだ。ついに彼の驚くべき蓄財の秘密は現れた。
ピーター「伝統的に、ファラオは税金から富を獲得していた。エジプト北部では少ない農夫たちが農作物のある割合をファラオの富のために税として収めていた。しかし、神殿の壁画で見たように、高位の祈祷師はファラオよりも豊かだった。そこで、スセネスは2つの収入源を組み合わせることにしたのだ。つまり寺院の富とファラオの伝統的な富の両方を自分のものにした」
しかし、スセネスはどんな方法で、このような確固たる立場を獲得したのだろう?それは、エジプトを統治してきた家族の家系図を見ると、はっきりしてくる。家系図の一番上にいるのは、南の祈祷師が反乱を引き起こした時期の家長だ。高位の祈祷師で、権力を握っていた男パネジェム1世(Pinedjem Iファラオ名)だった。
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ピーター「パネジェムは紀元前1070年頃、ここカルナック神殿の高位の祈祷師だった。彼には4人の息子があり、そのうちの3人は高位の祈祷師の地位を継承した。残る1人がスセネスで、彼は北エジプトのタニスに行き、ファラオ(スセネス1世)になった。しかし、彼は、同時に北エジプトにおける神アムンのための高位の祈祷師の肩書も与えられていたのだ」
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スセネスは頭が切れる政治家で、家系の団結力を利用することにした。
ピーター「スセネスは、弟がカルナックの高位の祈祷師を継承した時、自分の娘を嫁としてテーベに送ったという記録がある。こうして、エジプトの北と南の関係は強化されていた」
戦略的同盟によって親族の結束を固めることで、スセネスの家系はエジプト全土を手中に収めていた。

これが家長のパネジェム(Pinedjem I)だ。彼のミイラはテーベThebesで見つかった。
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スセネスの母ヘンターウェイHenuttawyもテーベで埋葬されていた。
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二人のミイラは乾いた砂漠の気候の中で保存されていた。

再びスセネスの石棺に話を戻すと、石棺は、彼の家族がどんなに大きな勢力をもっていたかを示す証拠を調査員たちに提供することになった。スセネスの名前に並んで花崗岩に刻まれていたのは、全く異なった王室の名前だった!
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ヤスミン「このカトゥシュには、興味深いことに、ハザペンマートって書いてあるの。第19王朝の王メルエンプタハMerneptahよ!古代エジプトについて知っていなくても、この人物はスセネスじゃあないことは判るはずよ」
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メルエンプタハはラムセス大王の息子だ!彼はスセネスが王位に就任した時より凡そ150年前にテーベで埋葬されていた。その墓は開けられ、石棺がタニスに運ばれたのだ!それは家族からスセネスへの贈呈品だった。
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ピーター「石棺は、王家の谷から、砂漠を横切って運ばれなければならなかっただろう。そして、ナイルを下って北のデルタまで運ぶため、大きな船に載せられた。統治者たちは間違いなく友好関係をもっていた。でなければ、北と南を分ける国境を船で移動することはできなかったはずだ」
スセネスは、彼の家系が、歴史上で高貴なラムセスの家系の流れを汲んでいると示そうとして、石工に命じて、王家の谷から運んできた石棺に刻まれていたカトゥシュの隣に自分のカトゥシュを刻ませたのだ。
ピーター「メルエンプタハの石棺を使うことによって、彼は自分とラムセス大王を関係づけ、永遠の生命のために、エジプトの偉大な過去の統治者たちとも関係づけたのだ」
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銀のファラオの墓を巡る物語は混乱や闘争ではなく、もっと異なる何かによって残されている。政略結婚や重要な同盟関係で繋がっていた彼の家系を通じ、スセネスは、望み通り、富と権力を獲得した。しかし、疑問は残っている。彼はそれをどのように利用したのだろう?

最近の発見は、スセネスが、古代の最も驚くべき業績の一つにおける影の功労者だったことを証明している。石のブロックを一つずつ移して大都市を移設したのだ!
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ラムセス二世の伝説の首都ピラメスが在った本当の位置は、考古学における、世界の大きな謎の一つだった。50万人が暮らす都市で、古代世界で最も大きい都市の一つだったが、砂の中に消失していた。
サリマ「その都市は、何十年もの間、エジプト考古学における聖杯だったの。ピラメスを探せ!ってね」

スセネスの墓が発見される前の1930年代に、ピエール・モンティは多くの古代の叙事詩をタニスで掘り当てていた。その時、彼は驚くべき可能性を疑い始めていた。自分は、考古学の聖杯を見つけたのではなかろうか?
サリマ「モンティは失われた都市ピラメスを見つけたと完璧に確信していたの。そこで報告書の中でタニスとピラメスは一つで、同じものだと書いたの。そう考えた理由は、タニスで彼が見つけた石のブロックのどれを見ても、丁度、これと同じようなラムセス二世の名前が見つかったからよ」
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「カトゥシュで、ラムセス二世の王名(注)よ。これと同じカトゥシュがタニスのあちらこちらでも見つかったので、モンティは、こここそがピラメスだ!って確信したの」
(注:エジプトのファラオは王名と即位名をもっています。ラムセス二世は王名で、即位名はウセルマアトラー・セテプエンラー。因みに、ツタンカーメン(Tutankhamun)は王名で、即位名はネブケペルウラーです)

モンティや世界中の考古学者たちにとって、この発見は単に王家の墓を掘り当てることなどとは比べ物にならない重要な意義を持っていた。
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しかし、モンティは一つの決定的なミスを犯していた。

地上を見る限り、彼の理論は理にかなっていた。なぜならタニスTanisは河岸の都市だったし、古代の記録によれば、都市ピラメスもナイルの河岸にあった。しかし、エジプトのデルタでは、ナイルは、いつも同じ場所を流れているわけではない。多くの支流を持っているが、その流れは時と共に場所を変える。ある場所が泥で埋まると別の場所に水があふれだすからだ。
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1970年代、考古学者たちはモンティの発見に疑問を投げかけた。彼らはピラメスが在ったというタニスから20Km離れた小さな場所に注目した。そしてモンティが見逃していた、長年失われていたナイルの支流の証拠を見つけた。
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サリマ「彼らは、その場所で発掘を始めたの。そしてラムセスの時代の多くの土器の隠し場所(キャッシュcache)を掘り当てたのよ。そこで地中探査レーダーを持ち込んで、一帯を調べてみることにしたの。すると、地下から巨大な都市が現れたてきたのよ」
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都市の基礎、かつてナイルが流れていた場所の痕跡など、ラムセスの失われた都市の幽霊とも言える映像がレーダー走査の結果の中で全て見て取れた。
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そこには寺院も、軍施設もあった。

サリマ「彼らはラムセス二世の厩舎(きゅうしゃ)跡も見つけたの。それはとても大規模な厩舎で、何百頭もの馬が飼われていたのに違いないわ。馬の訓練でよく使われたと思われる場所には、沢山の馬の足跡も見つかっているの。間違いなく、ラムセスのものとしか考えられない、信じられない程に大きな複合都市があったのよ」

今日では、都市の痕跡すら地上に見ることはできない。広大な建物群は完全に消えていたのだ。しかし、そんなにも広大な都市が、どうして、こうも完璧に消えてしまうのだろう?
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今日、考古学者たちは、ここを流れていたナイルの支流がひどく泥で埋め尽くされ、流れを変えてしまったことを知っている。都市ピラメスは文字通り高く(?high)なり、乾き切ってしまった。生命の維持は不可能になった。記録は、紀元前1047年にスセネスが王に就任した頃、この危機が起きていたことを示している。そこで、彼はピラメスの偉大な記念碑を全て解体し、タニスに移すことにした。スセネスは、首都を建てるほどの力は持っていなかったかも知れないが、都市を救ったのだ。
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サリマ「それがどんなに大きな仕事だったか考えてみてよ。アメリカのワシントンDCに在るホワイトハウスやリンカーン記念堂を、記念碑を、バルティモアBaltimoreまでの道のりの半分ほど運ぶのよ」

レーダー走査がなかったら、スセネスの驚くべき業績は現れてこなかったかも知れない。モンティは、結果としては、確かに、ラムセスの伝説的都市の偉大な叙事詩を発見した。
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しかしそれは、スセネスが元の場所から移したものだったのだ。
ここで発見された遺物とレーダー走査の結果を照らし合わせた考古学者たちは、ピラメスの寺院が、モンティがタニスで見つけた寺院と同じ形で造られていたことを確認している。
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スセネスは都市の全てを、一つずつpiece by piece移設する力を持っていた。そして、ここタニスから、彼は、ファラオとして、また高位の祈祷師として、信じられない程に強大な権力を行使していた。
サリマ「都市をある場所から別の場所に移せたのは、スセネスが労働力や組織力や優れた官僚組織を持っていたという明確な証拠よ。彼は新しい都市に命を吹き込む機智と熱意を持っていたの」

スセネスの富と、権力と、長期にわたる統治は、彼にファラオが行わねばならない最も重要な決断を計画する贅沢を与えてくれた。死後の世界にどう対応したらよいのか?
墓に持って行くものの選択は重要事項だった。しかし、とエジプト学者たちは不思議がる。何故、彼は棺に銀を選んだのだろう?純銀100Kgが使われている!
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古代エジプト人には、黄金は全く錆びることがないので“神々の肉”として知られていた。神と同じように、永遠の輝きを持っていた。一方、銀は色が淡く、控えめに輝いていることから“神々の骨”と呼ばれていた。古代エジプトには天然の黄金は埋蔵されていたが、銀はほとんどなかった。従って、初期の王朝では、銀は金より貴重だと考えられていた。しかし、スセネスの時代までには、外地との交易ルートを開発し、商人たちは銀を取り扱うようになっていた。紀元前1千年には、銀の価値は金の凡そ半分まで低下していた。しかし、スセネスが最高品を手にする余裕があったのは間違いない。彼の財宝のいくつかはツタンカーメンの財宝と比べても劣らない。
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考古学者で銀細工師のジョン・プリヴィットは何故、スセネスは銀を選んだかという疑問について調べている。
ジョン「銀は比較すると安価だったかもしれない。金ほどには高価ではなかった。しかし、加工は、手間がかかる上に高度な技術を必要とする。銀は金よりも固い金属で、金と比べて展性(てんせい;延びやすい性質)が低いからだ。その都度、加熱して結晶構造を柔らかくしないと加工が困難だ。この加工過程を何度も繰り返すとなると時間や労力や燃料が必要になる。銀の細工は金を細工する場合よりも多くの負担がかかるのだ」
スセネスが高い品質や芸術性を望んでいたのは明確だ。あの世に一緒に持って行くのだから費用は度外視していた。
棺の体の部分は、銀を叩いて延ばした薄い繊細なシートで出来ていたので、墓から出す際に、一部が損傷していた。
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頭の部分では銀はもっと厚い。鼻や口の周りの思わせぶりな痕跡は、鋳型(いがた)を使って鋳造してから叩いて形を整えたことを暗示している。
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エジプト人は古い昔に貴金属の鋳造技術を習得していたことが知られている。鋳造した後の表面は、このような外観を呈している。
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スセネスの細工師たちは、これを叩き、磨きながら彼らのファラオに似せていった。その工程では数百時間の骨の折れる作業が必要だった。

今日、銀の棺はエジプト博物館の偉大な財宝の一つだ。それは、ピエール・モンティの素晴らしい発見を永遠に思い出させてくれるだろう。第二次世界大戦の後で、彼はいくつかの新しい発見をした。
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しかし、それらの中には、銀のファラオほどに眩(まぶ)しいものは一つもない。1966年、ピエール・モンティは死んだ。発掘した都市がピラメスと信じたまま。しかし、スセネスの墓の発見という彼の素晴らしい成果は、考古学における重要な切っ掛けmomentとして残るだろう。スセネスは、ラムセス二世やツタンカーメンのような名声を楽しむことは決してないだろう。しかし、彼の星は天空で輝いている。
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調査員たちはモンティが始めた仕事を引き継いで、エジプトの暗黒時代を考え続けている。

サリマ「スセネスは信じられないほどの男だったのよ。ある場所から別の場所に首都を移し、墓泥棒も横行していた荒廃の時代に素晴らしい墓を自分のために造ったのだから。彼の価値は再評価されるべきだし、わたしたちは、第21王朝の記憶すべきこのファラオにもっと注意を払わなければならないと思うわ」
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スセネスは、手が込んだ埋葬地を造るよう指示したことで、不滅への切符を買うことが出来たと信じていたかも知れない。3千年後の今、我々は当時を振り返って、“彼は正にその通りにした”と言うのだ。
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The Powerful Black Pharaoh That Is Called..SILVER ??
https://www.youtube.com/watch?v=9HMK7yih8eE

Wiki: Psusennes Iから得た情報です。
Gold burial mask of King Psusennes I, discovered in 1940 by Pierre Montet
第二次世界大戦が始まった1940年にピエール・モンティが発見したスセネス1世の黄金の埋葬用の面
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Gold and lapis lazuli collar of Psusennes I
スセネス1世の黄金とラピスラズリの首飾り
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カイロ博物館/スセネスでみつけた財宝もご紹介しておきましょう。
金とラピスラズリで作られた腕輪にはスセネスのカトゥシュがあります。
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胸飾りと首飾り;ラピスラズリやその他の玉石が使われています。
いずれにもスセネスのカトゥシュが付いています。
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首飾り
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スセネスの墓に黄金の副葬品が見つかったのは、彼の死後に誰かがこれらの品々を遺体と一緒に埋葬したからですが、その人物は何故、そんなことをしたのか?スセネスに限らず、エジプトのファラオは、いやいや、ファラオに限らず、古今東西、全ての権力者の墓には、庶民から見れば目の玉が飛び出るような金銀財宝・貴石・芸術品などが遺体と共に埋められています。何故、そうなったのかについては、幾つかの理由があると思いますが、根底には、死後も別の世界で生き続けるという思想があるからでしょう。我が尊敬するお釈迦様は、副葬品を所望(しょもう)していませんから、人類の歴史の中で名を残している統治者などとは異質の人物です。お釈迦様すら黄金の副葬品を所望しなかったのですから、mhも死後の世界での生活を配しなくて済むようになったということはありがたいことだと思います。そうでなければ、mhは、今頃、必死に、資産を金の延べ棒に替え、死んだら必ず遺体と一緒に埋葬するよう、頼りない子供達に強く遺言し、子供達が遺言を守ってくれるかどうか、心配しながら死んでいかねばならないのですから、とてもやっていられません!

で~日本人でも、黄金の副葬品を所望しながら死んでいく人って今でもいるんでしょうかね?今上天皇の明仁(あきひと)は従来の伝統を破り、火葬で埋葬してほしいと侍従に伝えているようですから、多分、埋葬品は質素な、愛読書とかそういった全く個人的なものばかりではないかと思いますが、天皇を除く日本国民の中にも、黄金の副葬品を所望している人がいるのか?戦国時代、秀吉や信玄が財宝を密かに地中に隠したっていう都市伝説のような話が伝わっていますが、それが事実としても、彼らの財宝はあの世の生活のためではなく、この世に残る子孫の繁栄を願ったものでしょうから副葬品ではなく埋蔵金と呼ばれています。今も見つかっていないようですから、埋蔵した意味が失われているってことで、冷静に考えれば埋蔵はされていなかったと考えるのが合理的でしょう。

埋蔵して残さねばならない資産を持つ人は、持たない人と比べて余計な心配を抱えていると言えますから、そんな心配をしなくて済むmhは幸せ者です。

(完)
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