Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アフリカ;否定された歴史


今回はYoutube「AFRICA :A History Deniedアフリカ:否定された歴史」をご紹介しましょう。
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アフリカの歴史と言えば、まず思い浮かぶのはエジプト文明です。世界四大文明のひとつで、ヨーロッパ文明より一足早く成長を遂げていたようです。アフリカ人には見事な文明を創る知力があるはずがないという偏見を持っていたヨーロッパの人々は、メソポタミア辺りから流れ込んだ部外者がエジプト人を統括して文明を創り出したのだろうと考えました。
(ラムセス六世の墓;王家の谷)
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しかし、ロゼッタ・ストーンの解析によってヒエログリフが解読され、発掘調査も進んだ今日では、砂漠化の進行で、サハラの遊牧民が、それまで湿潤地だったナイル河岸に移住して、5~6千年程前にエジプト文明を産んだことが明らかになっています。エジプト文明はアフリカ人が独自に作り出したものだったのです。

そもそもヨーロッパ人がアフリカ人を蔑視するのは、15,16世紀頃、ヨーロッパ人が入植して棲み着くまで、エジプトを除けば、アフリカには文字を使う文化がなかったことが主因でしょう。

處で、日本で文字が使われ始めた時期ですが・・・
mhが調べた範囲では西暦4,5百年頃だと思われます。西暦600年、遣隋使の小野妹子が持参し皇帝の煬帝(ようだい)に上奏した聖徳太子作成の国書に“日出處天子致書日没處天子;ひいづるところのてんし、ひぼっするところのてんしにしょをいたす”と書いてあったようですから、少なくとも西暦5百年後半には知識人の間で漢字が使われています。これが最も古い、日本人が文字を使っていた証拠でしょう。その後、50年程してから編集が始まった万葉集にも万葉仮名と呼ばれる漢字が使われていますから、その時期には漢字が広く普及していたことになります。しかし、それ以上のことは記録も残っていないため不透明です。こんな調子の日本は、欧米から見れば、アフリカ同様、新しい歴史の国、言い換えれば文明後進国となるのでしょうか。

ヨーロッパ人によるアフリカ人蔑視は、15世紀半ばに始まった大航海時代に続く植民地化で固定概念になりました。17世紀に南アフリカに入植したオランダ系移民はアフリカ人の主人となり、彼らの子孫は、現在でも富裕層を形成して黒人系南アフリカ人の上に君臨し続けていて、アフリカーナー( Afrikaner)と呼ばれています。

次の黄金の犀(さいrhinoceros)の像は南アフリカ共和国で発見されました。
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掌(てのひら)に乗るサイズです。金属なので造られた年代推定は困難なのですが、発見された場所を調べた結果、1075年~1220年のものだと判明しています。
この黄金の犀を造ったのはどんな文明か?
その文明は何故、失われてしまったのか?
造ったのは無能なアフリカ民族ではなく有能なヨーロッパ人では?
としたら何故、南アフリカ共和国で見つかったのか?

最初の2つの質問に対する答えは今も不透明な部分が多いようですが、後の2つの質問の答えは明快で、勘の良い読者諸氏は既にお気付きでしょう。

それではYoutubeフィルムでアフリカの失われた歴史をご確認下さい。
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アフリカの歴史の多くは失われている。アフリカは忘れ去られた王国の土地と言えよう。
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中世には、アフリカの偉大な帝国は、象牙や黄金をヨーロッパに供給してルネッサンスを加熱した。
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その後、数世紀に渡ってアフリカから多くの富を得ていたアラブ人やヨーロッパ人たちは、共謀してアフリカ大陸やその偉大な遺産を否定し続けている。
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アフリカ:否定された歴史
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白人の探検家たちは、黒い大陸からの搾取を正当化するため、黒いアフリカ人たちがMad Hadson(?)の邪教以上のことが出来ると信じることを拒絶し、白人の植民地主義者たちはアフリカの失われた文明は白人の祖先によるものだと主張した。
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アフリカ人歴史家アリ「西洋世界には、間違いなく“アフリカ人は歴史を持たない人々だ”という深く根付いた考えがある」
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「かつて私が学んだオックスフォード大学の、近代歴史学の先端をいく教授たちでさえ、私がイギリスにいた時、大衆に向けてこう演説した。“多分、今後なら、アフリカの歴史があるかも知れない。しかし現時点では、彼らの歴史は無い。あるのは、アフリカにおけるヨーロッパ人の歴史だけだ。その他は暗黒だ。そして暗黒は、歴史学の研究テーマではない”」

偉大なアフリカ文明は、口伝という伝統に頼り、権力者や種族間紛争など、古代の伝説を語り継いでいくものだった。
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これらの伝説は世代から世代に受け継がれる過程で、徐々に記憶から消えていき、王の名前すら忘れ去られてしまった。記述による記録がなかったので、アフリカの過去における強力な帝国も、その土地同様、脆(もろ)かった。

今から8百年前、南アフリカの、ジンバブエとの国境近くの、この荒れ果てた土地は、そういった王国の一つだった。
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彼らの文明の、目に見える証拠は全て、失われてしまっていた。しかし、現地で暮らす人たちは祖先のつぶやきを介して、かつて偉大な王や王妃が、藪(やぶ)の大地から高く突き出た崖の上に埋葬されていたことを知っている。
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その埋葬地は、下から運び上げた数千トンの土で出来ていた。埋葬される前、王家の人々の遺体は財宝で飾られた。

8世紀後の1932年、黄金に飢えたアフリカーナの探検家が現地の村人を説得して、祖先の埋葬地のマプングブウエMapungubwe に連れていくよう説得した。今日、探検家の孫のアーンスト・フォン・グラーンが当時の旅を再追跡している。
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アーンスト「私の祖父は宝探しだった。彼はいつも黄金を見つけることに関心を持っていた。彼は、およそ5年間、ここで探索した」
マプングブウエでは、何世紀も続いていた迷信が王家の埋葬地を墓泥棒から守っていた。ガイドを務めた現地人は、盲目になってしまうと恐れ、神聖な丘を見ることすら拒んだほどだ。
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アーンスト「現地のリンダ人たちは、その丘をマプングブウエと呼んでいた。“ジャッカルの丘”という意味だ。悪霊が棲み着いていると考えていたんだ。近くに行けば判るが、垂直にそそり立つ崖で囲まれていて、登るのは不可能に思える。しかし、祖父たちは狭い路を見つけ出して登り始めた」
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すると探検隊は、崖の表面に掘られた窪みを発見した。窪みは、トンネルのような狭い通路を伝って丘に登るための梯子の役目を果たしていた。大きな石が落ちてきて彼らを押しつぶすという罠(わな)が仕掛けてあるのではないかと怯(おび)えながら、しかし何事もなく丘の上に到達した。そして、彼らは正に南アフリカの王室の財宝を掘り出すことになる。
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アフリカの歴史における別の面での重要な章で運命づけられているように、発見された黄金の遺物は溶かされてしまうのが普通だった。探検隊の当初の考えもそうだった。しかし、この時は、幸運にも、最後の瞬間、フォン・グラーンJr(息子)は良心の呵責(かしゃく)に襲われたのだ。

発見されたものの中には、黄金の笏(しゃく)と黄金の犀(サイ)があった。ツタンカーメンの財宝と比べたら取るに足らない小物だ。長く忘れ去られていた過去との繋がりを示すものはほとんどなかった。しかし、プレトリアの歴史学の生徒だったフォン・グラーンJrは、これらの手工芸品の重要性に気付き、大学に寄贈することに決めた。
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発見物は救済されたものの、大学の考古学部門の金庫に保管され、公開されることはなかった。後に同じ場所で発見された陶器は、かつてマプングブウエに多くの人々が暮らしていたことを示していた。
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今日まで、プレトリア大学は数少ない考古学者たちだけに、これらの発見物へのアクセスを認めただけで、広く人々に知られることは無かった。
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これらはサハラの南における最も重要な手工芸品だ。今回、いやいやながら撮影のために特別に公開してもらったが、撮影が済むと直ぐ金庫に戻された。また埋もれたままになるかも知れない。
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これらの遺物が秘密にされている理由はアパルトヘイト(注)に基づくものかも知れない。
(注:特に南アフリカ共和国における白人と非白人の人種隔離政策)

オランダ系定住者たちは、黒人と白人はおよそ同じ時期にこの地にやってきたので、領地内の物件については平等の権利があると主張していた。炭素年代法によってマプングブウエが西暦1200年以前の古さだと判明すると、白人系アフリカ人は驚いたが、彼らは黒人たちが自分たちの祖先より4百年以上も前にこの地にやって来ていたことを信じようとしなかった。アフリカーナの科学者たちは何度もマプングブウエを調べ直した。恐らくアフリカ南部で最も多く炭素年代測定が行われただろう。しかし、結果はいつも同じで、西暦1200年だった。
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アリ「多くの白人系定住者がいた。彼らの主張の多くは“この地の多くは、いずれにしてもアフリカ人の誰もが自由にできるもので、我々はアフリカ人と同じ時期にやってきたのだから、黒人系アフリカ人が白人系アフリカ人よりも多くの要求ができるということはなく、白人系は黒人系と同じ権利を持っている。だから何百年も前にあったものは、鉱山のようなものもそうだが、白人系アフリカ人にも十分な権利がある“というものだったんだ」

しかし、マプングブウエの文明は、古代の、繁栄した、黒人が創造したものだった。その人々に何が起きたかは謎に包まれたままだ。彼らは牛の群れを連れ、遠く北の青々とした牧草地が広がる涼しい高地に移動したのかも知れない。または他のアフリカの王国の祖先になったのかも知れない。

マプングブウエの発掘からわずか1百年後、リンポポ川から300Km反対側に、最も偉大なアフリカの帝国の一つグレート・ジンバブエが発見された。
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ヨーロッパが中世を迎えていた時、アフリカ南部はグレート・ジンバブエ王国が統治していた。彼らの王は高さ7.5m、厚さ4.8mの巨大な城壁で円形に囲まれた王宮から指示を出していた。
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この王国について知られていることは少ない。今では王の名すら忘れ去られている。我々が知っているのは、彼らが数千頭の牛を飼い、象牙や黄金をアフリカの東海岸で暮らすスワヒリ語族の商人に供給していたということだけだ。それは、アフリカにおける世界との貿易ネットワークの最初の繋がりだった。今日のジンバブエ共和国は名前を古代王国から引用している。ジンバブエは“偉大な石の家”を意味する。つい最近まで、国の本当の歴史は白人によって否定されていた。彼らは黒人系アフリカ人が、こんなにも壮麗な記念碑的構造物を創造することなどできないと確信していたのだ。

数百年の間、ヨーロッパ人はアフリカの暗い野蛮な内陸のどこかにあるはずの、信じられない程に豊かな失われた白人系の文明を見つけることを夢見ていた。
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ドイツ人探検家カール・マルクKarl Mauchは、リンポポ川北部の未だ探検されたことがない地域に古代の石の遺跡があるという話を聞き、何カ月間も現地を歩き回り、ついにこの素晴らしい夢に出会うことになった。
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カールの手記「1871年9月5日、火曜日、私は明らかに丸い構造物を遠くない場所に見つけた。それはモルタルを使わず、小さな花崗岩だけを組み上げて造られていた」
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「外壁の直径はおよそ45mで、現地人は、この遺跡をジンバブエと呼んでいた」

マルクはその遺跡の見事さと洗練された美しさに驚愕した。しかし、原始的な黒人系アフリカ人にはとてもこのような壁を造ることは出来ないと信じていたので、きっと、今は消滅してしまった白人系種族の作品だろうと考えた。

カール「最後に私は塔のような構造物の前で立ち止まった」
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「その塔はほとんど損傷なく立っていた。私は現地住民から、“40年程前から住んでいるが、その時点では誰も暮らしていなかった”と聞いていたので、かつては白人が暮らしていたはずだと確信した」

彼はノートにアフリカの手工芸品をスケッチした。
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しかし、この都市が黒人によって造られたと信じることは拒絶していた。そして彼はついに、彼の理論を証明すると信じられる証拠を見つける。
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カール「私は通路の上の木製の梁(はり)から破片を切り取った。私の鉛筆の木材と比べると、杉cedar材で、レバノンから送られてきたものに違いないと思った。フェニキア人だけが、その杉をここまで運んで来ることができたはずだ。ソロモンは王宮の建物に多くの杉材を使っている。だから、この建物はエルサレムにあったソロモンの建物を真似て建てられたものだ。これを造った偉大な女性はシバの女王以外に考えられない!」
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カール・マルクによれば、この場所は旧約聖書に記された黄金の都市オフィルOphirだ。シバの女王の物語は聖書の中で初めて語られている。黄金や貴石など素晴らしい贈り物を駱駝に積んだ謎の白人女王はエルサレムのソロモン王を訪れた。彼女は絹のガウンの下に包まれた美しい肢体を道具に王を誘惑した。王が望む全てを彼に与えたという。
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カール・マルクはシバの女王がグレート・ジンバブエの女王で、こここそが彼女の王宮だと結論付けた。
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マルクの人種差別的な理論は大英帝国の勢力拡大を目論んでいた白人系定住者たちに効果的な宣伝文句として使われた。旧約聖書の時代、この地に白人が棲んでいたというどんな証拠も、この地域における彼らの新しい搾取を正当化してくれる!
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1890年の半ば、英国人の富豪事業家セシル・ローズは、ローデジアを創立した。
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国は、多数を占める黒人がジンバブエと名を変える1980年まで白人によって統治され続けた。
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ローズはダイヤモンドと黄金が豊富な土地を数千Kmに渡って掘り起こしてしまった。その中にはグレート・ジンバブエも含まれている。彼は、それがフェニキア人の王宮だったと主張し、最も価値のある作品ともいえる遺跡そのものも乱暴に破壊しつくしてしまったのだ。
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考古学者ピーター・ガーレイク「グレート・ジンバブエの最も大きな悲劇の一つは、建物の基礎がフェニキア人の謎の中心だと信じられ、大勢の人々によって徹底的に掘り返されたことだった。おかげで人が暮らしていた証拠の全てが破壊されてしまった」
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この歴史的な破壊行為vandalismは、かつてこの地の保護責任者だったピーター・ガーレイクを今もなおイラつかせている。この時の破壊があまりに大規模だったので、本当の歴史がほとんど永遠に失われてしまったのだ。
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しかし、1929年、英国人考古学者による大規模な遠征がグレート・ジンバブエをシバの女王の胸から解き放つ試みを行うことになった。女性の遠征隊責任者ガートルード・ケイトン・トンプソンはグレート・ジンバブエの謎をきちんとonce and for all解きあかそうと決意を固めていた。
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ガーレイク「ケイトン・トンプソンは希代の女性だ。考古学の知識は深く、男同等に発掘作業に取り組んだ。恐らく彼女は最初の女性考古学者の一人だろう」
しかし、数週間の発掘の後も、場所の年代を特定する十分な証拠は見つからなかった。士気が落ちた発掘隊は、他に調査する価値がある場所がないか探してみることにした。ケイトン・トンプソンはまだ手が付けられていない場所を見つける必要があると考え、友人を説得して飛行機から付近一帯を調べることにした。
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王宮の丘(アクロポリス)上空を離れて飛んでいると、地図に書かれていない道が丘から続いていることに気付いた。草木が生えて道が隠されていたのでこれまで気付かなかったのだ。その道は別の城壁の囲いに繋がっていた。そして彼女はついに、白人の手がついていない場所を探し当てた。
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仕事は翌日から始まり、とうとう必要としていた証拠を見つけ出した。調査の結果、古代のバンツー人たちは、11世紀、ヨーロッパで中世の時代、グレート・ジンバブエを建設していたことが判明した。しかし、彼女の報告書は白人系ローデシア人の間で話題になることは無かった。
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ガーレイク「ガートルード・ケイトン・トンプソンの仕事は学会で高い評価を得たが、現地に暮らす白人系移住者の考えを変えることは出来なかった。彼らは、原住民は野蛮で、偉大な建造物を造ることなど出来る訳がないと信じ込んでいたのだ。結局、発見から50年にも及ぶ研究をもってしても、グレート・ジンバブエは外部の力を得て造られたものだという考えが変ることはなかった」
ケイトン・トンプソン女史は“啓蒙されていない人々がいる。彼らは元々が小作農で、小さな頭脳の持ち主でしかない!”と皮肉を込めた記述を残している。それから何年も経った後も、ローデシアの公的な旅行ポスターには、黒人の召使いが白人のシバの女王の前に跪(ひざまず)くように描かれている。
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グレート・ジンバブエは白人の人種優越性の象徴として使われたのだ。今日でも、同じイメージが新しい国家ジンバブエの象徴になっている。
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アリ「アフリカ人国家の主張の合法性を覆(くつがえ)す試みは“この土地はあなた方のものである以上にとは言わないが、それと同じくらい我々のものだ”というものだった。もし我々がデモを起こしたなら、こう主張するだろう“これらの壁を見よ、あなた方の主張を覆す証拠だ、なぜなら、これらの壁は何百年もの間ここにあるのだから、これらはアフリカ人によって建てられたのだから、あなた方より何世紀も前からアフリカ人がここにいたと無言で証言しているのだから、あなた方はそれを受け入れるべきだ、証人はここに横たわっているんだから、それでも、アフリカ人によって造られたものではないと言うのか?”」
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何世紀もの間、グレート・ジンバブエは架空の歴史を押し付けられてきた。しかし、この偉大なアフリカ王国はどんな国だったのだろう?14世紀、この王国が最盛期だった頃、グレート・ジンバブエは繁栄した都市国家metropolisでアフリカの中でも特異な存在だった。当時、ロンドンと同じ大きさを誇っていた。1万8千人が数平方マイル(1マイル=1.6Km)に押し詰めるように集まって暮らしていた。偉大な石の城壁の内側には、サハラの南のアフリカで最も古いと考えられる都市文明があった。
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喧騒は圧倒的なものだったはずだ。何百もの台所から立ち昇る料理の煙は空を暗くしていただろう。王国は数千Kmも広がり、それぞれの支配者をもつ何百ものジンバブエという町を含む帝国の首都がグレート・ジンバブエだった。グレート・ジンバブエの中では、王は死んだ後でも長い間、影響力を持っていた。祖先の霊は支配者として、かつ霊的な助言者として、存在感を持ち続けていた。

今日、現地で暮らすショーナ人はグレート・ジンバブエを建造した人々の子孫だと考えられている。近代のショーナ文化においても、祖先の霊は今もなお、霊媒がアクロポリス(丘)遺跡の下の洞窟で行う儀式を通じて人々に接触していると考えられている。
ジンバブエ国務大臣スタン・ムディンゲ「ショーナ人は信仰深い人々だ。祖先は死んでも永遠に去ってしまうことはないと強く信じている。それどころか、霊媒を介して、生きている今の人々を罰したり、激励したりし、霊の教えに従えば不幸から免れることができると考えている」
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ジンバブエの大臣スタン・ムディンゲはショーナ民族の祖先について研究している。
スタン・ムディンゲ「支配者の魂、特に死んでしまった支配者の魂が、最も権力を持っているという考えがある。魂は媒体を持っていて、いつでも人間の姿で現れて力を及ぼすと信じられている」

王国を見下ろすアクロポリスの丘の上には、囲われた神聖な場所がある。
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そこで何が行われていたのか、我々は想像することが出来る。
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困難な事件が起きると、王はここにやって来て、彼の祖先に貢物(みつぎもの)を捧(ささ)げ、霊の導きを求めた。霊媒者は自らをトランス状態にし、古い昔に死んでしまった支配者の霊を乗り移らせた。王と、国の創立者たちとの超自然的な繋がりは彼らの文化の根底だった。自分の霊媒者を通して、王は王国のその他のグループの霊媒者たちに影響を及ぼした。王は彼に挑戦する誰に対しても、軍事力に加え、力強い精神的な影響を及ぼしていた。
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大臣スタン・ムディンゲ「統治するためには巨大な軍事力は必要じゃあなかった。人々を安心させ、心理的に統括して彼に従わせていたんだ」
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これらの巨大な石の鳥はその力の象徴で、神聖な場所から回収されたものの一つだ。
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大臣スタン・ムディンゲ「アフリカの、この辺り一帯で最高の成果を上げた文明だった。彼らが積み上げた富が、グレート・ジンバブエのような巨大な構造物の建造を可能にしたんだ。彼らが残した物を見ると、今でも彼らの偉大さを尊敬せざるを得ない」

グレート・ジンバブエは熱心な人々によって数世紀をかけて建造された。
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1百万個もの石が削って形を整えられ、外壁の建設に使われている。各々の部族は毎月、7日をリーダに捧げ、この記念碑を彼らの王やその親族のために造り上げた。

城壁を造り始めた人々は、当初、このような花崗岩が露出した場所にきて石を切り出していた。
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数世紀に渡って、人々は石を切り出しては、石壁の修理を続けていた。それは今日でも続いている。花崗岩を火で加熱し、亀裂の辺りに水を掛けると、石が割れる。それをハンマーで注意深く叩いて形を整えて建築用石材にする。
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彼らがどのようにして石の城壁を建設したのかを理解するのは容易だが、何故、造ったのかについては様々な主張があり、今も論争が続いている。“偉大な囲いgreat enclosure”は砦(とりで)だったのか?王宮だったのか?
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聳え立つ石壁の間の狭い通路についてはいろいろな説がある。
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女の成人式female initiation ceremonyを覗(のぞ)こうとする男たちを排除するものだと考える人も多いが、もっともありえるのは、王室の日常生活のプライバシーを完璧に守るためだったというものだ。
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しかし、巨大な円筒の塔については謎のままだ。
ガーリック「ヴィクトリア時代の調査員たちは、これが性的な象徴だろうと考えていた。つまり石で造った男性器で、従って、この場所へ立ち入ることは制約されていたはずだと。しかし、その形や装飾を見ても、この考えを支持する明確な証拠は何もない。穀物などの食材を保存しておくための建物ではないかとの考えもある。この考えは王国の指導者は人民に食料を供給していたという説を支持している」
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西暦1300年頃、この建物が造り上げられた時期、には経済成長が著しかった。富の源は牛だ。族長の地位は彼が保有する牛の数に基づいていた。豊かな男は多くの牛を所有し、従って多くの妻を持つことが出来、妻たちは主人のために多くの子供を産んだ。子供たちは労力となり、より広い耕地を耕した。
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仕事量が少ない乾季になると、農夫たちは金鉱夫になった。
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細く長い穴の中で黄金を求めて更に地中深くに掘り進む作業は勇気が必要で、危険が伴うものだった。多くの人は鉱山ではなく、川で皿を使って砂金を採る方を好んだ。黄金は王の専売品だった。彼は鉱夫たちの賃金として牛を持って支払い、獲得した黄金でアフリカ東海岸のスワヒリ語族の商人と交易した。
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グレート・ジンバブエの最盛期、統治者は東アフリカの貿易港への黄金と象牙の流通を管轄していた。この交易のおかげで、古代世界における最も華麗ないくつかの都市がアフリカの東海岸に沿って造られることになった。
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14世紀、アフリカのスワヒリ語族が棲むアフリカ東海岸は、異国情緒あふれる場所になっていた。アラブ人の船乗りたちは、“世界でも活気や物に溢れ、華麗で見事に建造された町があった”と書き残している。
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この船旅はアラビアンナイトのシンドバッドの伝説や冒険を産む切っ掛けになった。運ばれてきたペルシャ絨毯(じゅうたん)はアフリカの象牙や黄金と交換された。
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商人たちは、インド、アラビア、更には極東からもやって来て、アフリカ内陸部との繋がりをもつ唯一の仲介者だったスワヒリ商人を介して取引きした。スワヒリ人たちはダウーツと呼ばれる船を造り、独特の航路を通じて遠くの港まで航海していた。
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海を管轄することで、彼らは、辺り一帯の商流を全て統治下においていた。

港では、毎年、何百捜もの船が、中東に送り戻してくれるモンスーンが訪れるのを待っていた。10世紀までには、黄金や象牙や石英は地中海まで溢れ出ていた。ギリシャやローマ時代以来、ほかの地では見られないほどの規模の商流だった。この繁栄した海岸線には、現在のソマリアからモザンビークにかけ、約3千Kmに渡って港や都市が続いていた。貿易網はアラブからインドや中国にまで広がっていた。
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15世紀にはスワヒリ人は麒麟(きりん)を中国に輸出し、皇帝の庭に集まった見物人たちを驚嘆させていた。

外部の文化との接触によって、アラビアやインドの伝統の影響を受けた国際的な社会がアフリカ東海岸に創り出されることになったのだが、このような国際的な成功にも拘わらず、アフリカのこの地でも、否定された歴史を被(こうむ)っている。
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混乱は最初のアラブ商人やイスラム教の導入に遡(さかのぼ)る。スワヒリ人は1千年前にイスラム教を受け入れていた。そのおかげでアラブとの相互信頼や商取引が創造された。
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祈りへの呼びかけはアラブからの貿易人とアフリカ商人とを共にモスクに呼び込んだ。彼らは手足を清めた後に中世のヨーロッパの大聖堂と同じように大きいモスクに入っていった。
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しかし、謎なのは、かつて偉大だったこの都市を始めに造ったのは誰かということだ。アラブ人か?それともアフリカ人なのか?
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考古学者マーク・ホートンはアフリカ東海岸のゴーストタウンについて調査している。彼は町の起源について革新的な考えを持っている。
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マーク「1920年代、初めてこの地に来てジャングルで覆われた町の遺跡を見た時、考古学者たちは、当然、町がアラブ人によって建てられたと考えた。石で造られ、装飾も施された墓石や、家々や王宮があり、トイレやミフラーブのあるモスクやミナレットなどはアラブ人が造ったに違いないことを示していた。しかし、私は、彼らの解釈が間違っていたことを今は知っている。ここにある都市群はアフリカ人社会のものだ」

町の建設に使われた材料はサンゴの堆積層から切り出されたものだ。
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つい最近まで、アラブ人定住者がアフリカ人奴隷を使って彼らのモスクや王宮を造ったと考えられていた。ここでも、アフリカ人が恒久的な建物を造れるとは信じられていなかったのだ。しかし、現在では、この貿易帝国の設立にスワヒリ人が積極的に関わっていたこと、これらの珊瑚の都市を造ったのが豊かなスワヒリ商人で、アラブ人ではなかったこと、が判っている。
簡単に説明するには複雑すぎる話なのだが、18世紀には、海岸線にあった多くの都市が衰退していて、アフリカ東海岸はザンジバル島(注)に暮らすアラブの王によって統治されていた。
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(注:ザンジバル島はタンザニア沖合の島です)
アラブ人の領土だと主張するための正当性を支持するため、彼らは、アフリカ人がスワヒリ文明の発展の中では単なる傍観者でしかなかったと主張した。
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10年の間、マーク・ホートンはスワヒリ人を支援しながら彼らの歴史を書き変え、正当な遺産を主張する手助けをしている。ホートンにとって、この孤立した建物はスワヒリ人たちを裏切った証拠物だ。それは“不思議な建物”と呼ばれている。
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マーク・ホートン「この大きな建物はスワヒリ人に対する決定的な侮辱だ。西暦1880年、イギリス人によってザンジバル島のアラブのサルタン(mhスルタンとも)に贈呈された。イギリス人は、東アフリカ一帯を統治しようと目論んでいた。彼らにとって不都合だったのは、そこがスワヒリ人が数千年も棲み着いていた場所だったことだ。そこで彼らは、スワヒリ人は歴史を持っていなくて、あるのはアラブの歴史だけだと考えることにしたのだ。そのため、この建物をザンジバル島のアラブの首長に与えることによって東アフリカの歴史に新たな混沌を創り出すことにした。つまり、この地にスワヒリが暮らしていたという考えを抹消しようとしたのだ」
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ホートンは、昔から棲み着いていたのは誰かを見つける唯一の方法は発掘だと考え、タンザニア海岸沖のペンバ島における初期のアフリカ人の定住の証拠を見つけることにし、彼が伝説の都市カンバルーだと考える場所に作業者たちを率いていった。10世紀のアラブの記録によれば、カンバルーはスワヒリ海岸における最初のイスラム都市だ。従って決定的に重要な場所といえる。
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アフリカの最高の伝統に従って、ホートンは木に登り、下にいる妻のケイトに発掘場所を指示した。
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彼らはこれから、完全に崩壊し消え失せているモスクだった場所の床部を掘り起こすのだ。そのことで、イスラムがどのように東アフリカにやってきたのかを見つけられると期待していた。

古いアラブの伝説に、ある言い伝えが残されていた。ザンジバル島の考古学主任アブル・ジューマが発掘作業で疲れていた作業者たちをキャンプファイヤーに誘って、それを語って聞かせた。アラブ人探検家が書き残したものだという。
アブル・ジューマ「929年のことだ。アラブの船乗りたちはオマーンからアフリカの貿易港カンバルーに向けて航海していた。しかし嵐が、さらに南の海岸に船を引き連れていった」
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「その海岸の部族は人食い人種だという噂があった。船乗りたちは命の心配をし始めた。アラブの商人たちは海岸に連れていかれ、王の前に跪(ひざまず)かされた。しかし、幸いなことに、王が関心を持っていたのは物々交換だった。
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「取引ならアラブ商人にとっては、お手の物だった。王はアラビアの宝石類に目を奪われた。そこで彼らはプレゼントを交換し合い、船乗りたちは胸をなでおろした。その場所を離れる時が来ると、彼らは王を自分たちの船に招待した。船に乗り込んだ王を見てアラブ人の船長は考えた。“このアフリカ人は奴隷市場で高く売れそうだ。”そこで、彼らは王を乗せたまま直ちにアラビアに向けて出港してしまった。船がオマーンに戻ると王は奴隷として売られてしまった。その翌年、アラビア語を習得した王は、コーランを学び、敬虔なイスラム教徒になっていた。ある日、彼は主人のもとから逃れ、数千Kmを歩いて故郷に戻った」
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「数年後、彼を裏切ったアラブの船長が、新たな船団を率いて再びカンバルーにやって来た。そして、船は再び南に流され、以前と同じ場所に漂着した。そこで、アラブの商人たちは昔、彼らが奴隷として売ってしまった王を見て驚き、命乞いをした。“商人たちよ。ここから去れ!”と王は言った」
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「“私がお前たちを許すのは、イスラムの教えを学んだことで、私や私の人民をイスラム教徒にすることができたからだ。イスラム教徒がやってくることがあれば、我々はこれからも兄弟として取り扱うだろう。”しかし、今回は、王は彼らを船まで見送ることはしなかった」

この物語が教えることは、スワヒリ人がイスラム教徒になり、奴隷として売り払われることがなくなったということだ。スワヒリの間にイスラム教が広がったということは重要な出来事だった。おかげでスワヒリ人がアラブの奴隷取引きから除外される保証ができたといえるだろう。
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物語におけるアラブ人船長の目的地カンバルーは、アフリカ東海岸の繁栄した貿易港だった。もしホートンが見つけた場所がそのカンバルーなら、石のモスクがあったこの床下には、アフリカ式で造られたモスクの跡があるはずだ。

この海岸には一時的な漁村があり、そこには木造のモスクがある。
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スワヒリ人は数千年の間、漁業シーズンだけ、ここで暮らしている。彼らはいつもモスクを建てている。スワヒリ人が最初に建てたモスクととても似た構造だという。
“これが木材で建てたモスクです。この辺りでは典型的な造りのモスクです”
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“で、後の時代に泥で造られ、更に後には石で造られるようになったんですね?”
“そうです。古いモスクの上に新しいモスクが造り直されていったのです”

豪雨がありマーク・ホートンの発掘作業は中断されたが、おかげで土が柔らかくなり、発掘は容易になった。石のモスクの下には2つの木のモスクの遺跡が見つかった。一つは別のもう一つの上に造られ、最も古い物は8世紀のものだった。
ホートン「ここが恐らくカンバルーがあった所だと考えている。歴史的な証拠から、カンバルーはイスラム教徒が住む南海岸における最初の町だった。私が今跪いている所こそが、恐らく、最初にイスラム教徒が訪れた東アフリカの場所のはずだ」

今日はムハンマドの誕生日でイスラムの祭りの日だが、ケニヤのラーム島ではアフリカで生まれた独特のお祝いが行われている。
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島々の間を帆走する種族対抗の船レースだ。海岸には人々が集って観戦している。
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イスラム教はアラビアからやって来たのかも知れないが、今ここで行われているのはスワヒリのお祭りで、スワヒリの方法で行われている。しかし、彼ら自身も、スワヒリ文明の起源はアラビアかも知れないと考えている。
アリ「ある種の混乱がある。スワヒリ人の中の多くのイスラム教徒はアラブによって特徴付けられていることを好む発想に侵されているのだ。そこで彼らは外部の人間の人種的傾向に対して、アフリカを否定したいと望む人間性を加えている(?)。従ってこれらのイスラム教徒は自分たちを理解する上で、疑似的な宗教的理由を持っているといえる(?)」
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「一方、西洋人の観察者たちは、アラブがスワヒリの文明化に影響を与えていたと考える人種的な理由を持っている。これら2つの要因が結びついて、混乱を産み出しているのだ」
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ラモーという町を造り出すには外部の力があったことは否定できない。木製の入口の複雑な文様はスワヒリの特徴だが、おそらく、今から数世紀前、インドの大工が訪れて、アフリカ人に手が込んだ彫刻手法を教えたのだろう。
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その後、スワヒリ人はこれを習得し、自分たちの文化に取り入れていった。そして恐らく、ペルシャ人が華やかなデザインを持ち込んで、家々の壁が彫り飾られるようになったのだ。今日ではスワヒリ人の彫り師たちは石膏に模様を彫るようになっている。

今から6世紀前、金持ちのアフリカ人商人は卓越した芸術家によって装飾されたヴィラ(高級住宅)を建てた。
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ラーム島(mhケニアの島です)は中世のベニスと同じくらい洗練されていた。これらの豪勢な家々はアラビアやインドとの交易の利益で造られたものだ。
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今日、多くの交易人たちは去り、経済は細々とした観光に頼っている。しかし、町の様子は、繁栄していた当時の様相を残したままだ。通りは今も驢馬(ろば)の通行で騒々しく、車が通るには細すぎる。
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当時の開口式下水道は、今もアリスの町を走っている。ラーム島の迷路のような通りはアフリカの東海岸に沿って残っている多くのゴーストタウンと同じ様相を反映している。16世紀には、何百ものこのような町々が廃墟と化してしまった。
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繁栄していた商業が何故終わることになったのかは明らかではない。誰もが交易で利益を得ていた。大陸内部の金鉱山の鉱夫、スワヒリ人の仲介者、船乗り、商人、そしてヨーロッパから中国までの中世の世界の消費者たちも。

恐らく、今日、協力的な王国同士が復興したり凋落したりしているように、対立し始めた商人の家族たちの富が、世代と共にすり減ってしまったからだろう。または黒死病が世界的な経済後退を引き起こし、アフリカの商品に対する需要が減少したからかもしれない。
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それはグレート・ジンバブエ王国やスワヒリ海岸に、栄光の時代の終焉をもたらした。西暦1500年代の終わりには、人々が暮らす建物は忘れ去られてしまった。しかし、彼らの文化的遺産はもっと悲惨な運命を辿った。
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アリ「どんな社会も、何を思い出として残したいかを選ぶ権利がある。しかしアフリカ人たちだけは、これまでずっと自らの歴史を完全に否定され続けている。思い起こしてほしい。現在判明している証拠によれば、アフリカは人類の祖先が生まれた大陸だ。世界で最初の人類が、初めて歩き始めた所だ。そう考えると、皮肉にも、人類の最初の住民が正当に理解される最後の人類になろうとしているように思える。我々アフリカ人は理解されないことに対して代償を支払い続けているのだ」

ヨーロッパからの入植者が初めてアフリカに来た時、彼らは白人族によって創造された幻想的な豊かさと美しさを持つ文明をアフリカで見つけようと夢想していた。驚くべきことに、この神話は現在も生き続けている。
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これが南アフリカの失われた都市だ。
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架空の失われた白人族たちの生きた記念碑だ。世界で最も贅沢なテーマパークの一つサンシティSun Cityの行楽地resortの一部だ。人工の浜辺は休暇中の白人系南アフリカ人で溢れている。
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片や、数千人の黒人系南アフリカ人労働者は、失われた白人族の夢が生き続けるよう働いている。しかし、夜になると彼らは丘の後ろに息をひそめるように隠されている小さな町に戻るのだ。
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恐らく何世紀も過ぎてから、未来の考古学者がこれらの娯楽施設を掘り起こして言うだろう“これは失われたアフリカ系白人族の遺跡だ!”と。その時こそ、彼らの主張は正しいと言えるかも知れない。
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How History Denied Ancient Africa ??
https://www.youtube.com/watch?v=kRA4-Rw0QXg&t=2734s

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アフリカの文明がアフリカ人以外の人種によって造られたはずだとヨーロッパ人が考えたのは、アフリカの遺物や資源を搾取しても罪ではないという身勝手な理屈を正当化するためであって、全く酷い仕打ちと言えます。大東亜共栄圏と称してアジアに進出した日本人も似たことを行いました。欲にくらんだ人間が考えることは世界中どこでも、いつの時代でも同じですね。

現在のジンバブエ共和国は1965年、イギリス領のローデシアから独立して生まれました。その時の立役者だったムガベ氏は、首相として実権を握ると1987年には大統領に就任し、93歳の現在も世界最長老の国家主席として我が物顔に振る舞っています。経済の疲弊は凄(すさ)まじく、最高額の10兆ジンバブエ・ドル札は日本円でたった3百円程度というスーパーインフレに陥り、失業率は80%とのこと。年寄りが導くと国家も社会も家庭も破綻するのは間違いありませんが、年を取るほど、権力に縋(すが)りつくのが人間の醜い習性ですから、元気なうちに若者に全権を譲らなければいけないのに、そんなことはお構いなく死ぬまで居座り続ける例は、キューバのカストロ首相、中国の毛沢東主席、北朝鮮の金正日など、枚挙にいとまがありません。プーチン大統領や安倍首相も同じ道を辿ろうとしているとしたら我々もボケーっとしてはいられません。

フィルムで紹介されたマプングブウエの補足情報です。
Wiki:マプングブエMapungubwe
かつて南アフリカ共和国で繁栄した都市。シャシ川とリンポポ川の合流点に位置し、現在のボツワナやジンバブエの一部をも支配したショーナ王国の前身にあたる一集団が拠点としたことで、1050年から1270年に繁栄したと考えられている。マプングブエの都市遺跡は、国立公園にあり、遺跡としての価値と文化的景観が良好に残されているため、2003年7月に世界遺産として認定された。
(マプングウエの丘:高さ30x長さ300m)
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マプングブエが没落すると、その存在は1932年まで忘れられたままになった。1932年の大晦日に、地元の農家で発掘家でもあったESJ van Graanと、プレトリア大学卒業の彼の息子が、マプングブエの丘の頂上で大量の工芸品を発見した。彼らはその発見をプレトリア大学教授レオ・フーシェ (Leo Fouché) に報告した。このことが今日につながる発掘の扉を開いたのである。発掘された工芸品には黄金製のものが多くあったため、盗掘を恐れて発掘当初は秘密に行われた。

工芸品の年代は西暦1000年頃から1300年頃に及び、土器、中国産の青磁、黄色、青、緑のガラスビーズ、金箔が貼られたサイの像をはじめとする黄金の装飾品類、土偶、象牙や骨を加工した製品のような有機的な遺物、精錬された銅や鉄などを加工した製品など様々であった。
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で~南アフリカ共和国のプレトリア大学は2000年に博物館を新設しました。
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内部の展示室です。
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ここに黄金の犀が展示されています。3つ並んだ一番奥か??
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グレート・ジンバブエですが、調査に貢献した女性考古学者はこの人でした。
Gertrude Caton–Thompson( 1888 –1985)
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空中撮影されたグレート・ジンバブエ。
手前は丘の遺跡。右奥には“偉大な囲い”があります。
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“偉大な囲い”
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その中の中空の石塔
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(完)

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