Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

フェニキアンの不思議


Wiki:フェニキア人/Phoenicianフェニキアン
フェニキアンはエジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

フェニキア文字(フェニキアもじ)は、古代地中海世界において現在のシリア一帯を中心に活動していた海洋商業民族であるフェニキア人によって北セム系言語であるフェニキア語を書くために使用されていた文字。紀元前1050年頃生まれた。フェニキア文字の前身は、原カナン文字Proto-Canaanite alphabetであると推測されている。
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フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(子音文字)である。すなわち、子音を表現する文字のみから構成される文字体系である。この特徴はフェニキア文字から生まれたヘブライ文字やアラビア文字にも受け継がれた。 ギリシャ文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。

それでは、Youtube「Sailing with the Phoeniciansフェニキアンとの帆船の旅」をご紹介いたしましょう。
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地中海・・・紀元前5世紀。
フェニキアンによって創造された巨大な商業網を語り伝える数百の考古学的な場所が地中海沿岸に散らばって残っている。
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その地方の文明や文化と全く無関係の品々がしばしば発見されている。ギリシャでエジプトのお守りamulet、エジプトでギリシャの花瓶などだ。
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そしてある種の体系化された方法によって、膨大な商品がある国から別の国へ、さらに別の国へと、運ばれ交易されていた。背の高い頭飾りを被り、恐ろしい船、航海術、交易、そして荒波を乗り切る蛮勇を持ち合わせたフェニキアンが取り仕切っていたのだ。
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彼らはこの交易で名を歴史に残した。どのようにしてフェニキアンが多様な文明や文化をもたらし、それらを織り上げて、文句をつけようがない海の支配者masterになったのか、調べてみよう。

Secrets of Archaeology 考古学の秘密
Sailing with the Phoenicians フェニキアンとの船旅
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フェニキアンは現代のレバノンから生まれ出た。彼らは組織化された都市国家だった。最も重要な都市はタイアーTyreだ。そこには華麗なローマ式建築物遺跡が今も残っている。
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フェニキアンにとって富を増やす最も簡単な方法は、他の人々と接触することだった。そして、新しい土地や文化に続いている最も早い道は地中海だった。
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彼らは直ぐに、卓越した船乗りや俊敏な交易人になった。彼らが一番だった。彼らは人々が手に入れたがる製品、買い取ってほしい製品を見抜く方法を学び、紀元前2千年期には、それらを運んで帆船で移動し、交易し始めた。
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この交易を補強するため、彼らは港を造り、植民地を開拓し、倉庫を造り、エジプト、ギリシャ、マグナ・グレイシアMagna Graecia、そして北アフリカのカーセッジCarthageなど、近在している国々と往来する移動ルート網を確立していった。更に彼らはサルディーニャSardinia、スペインの地中海及び大西洋岸、更に遠く南の海岸にそってセネガル、北はイングランドやアイルランドまでも出かけた。
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何百もの植民地や何千もの船を持つ交易網で、植民地や船は、きっと見事に機能し合っていたに違いない。何年もの間学者たちは、倉庫を組織化し、多様な製品を取引きするため、フェニキアンがどのようにして、そんなにも古い時代にお互いに連絡し合うことが出来たのかを思い描いていた。
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そのように大きな組織を統括する技術について考古学者たちが気付いたのは、紀元前13世紀に遡る、フェニキアンの王アヒラムのこの石棺の発見だった。
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石棺には最も古代のアルファベット記述の例が彫られていた。それは文字であり、ハイログリフ(絵文字)ではなかった。
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フェニキアンはアルファベットを最初に創造した民族だ。彼らの偉大な交易網を打ち建てるためには不可欠な要素だ。この発明がどんなに素晴らしい物だったのかは、次の比較から思い描くことが出来る。
右側にはエジプトの2つのヒエログリフ表記が、左側にはフェニキアンのアルファベットの2つの文字MとHがある。
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これらの文字を組み合わせることで、読み手はハイログリフや絵文字で代用される概念を翻訳する必要が無かった。読み手が持っていたのは常に同じで、誰が読んでも同じ意味を持つ特定記号だけだ。

フェニキアンの船団の指揮官は多くの技術を持っていなければならなかった。彼らは海や外地に関する専門的な知識だけではなく、何を売り、何を買うか、といった取引の手法についても知っていなければならなかった。
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彼らの貴重な交易品の一つは、レバノンの神話ともいえる杉(mhレバノン杉)だ。頑丈な荷物船や軍船を造るのには優れた木材だ。
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木材はレバノンにあるフェニキアンの都市の後ろに控えていた山地の中のベイルバックで購入することが出来た。ヘレニズム時代には、都市ベイルバックはヘリオポリス“太陽の町”と言う名で知られていた。
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この地における、これらのスワステイカ(swastika卍まんじ)や柱の色の違いなどの証拠の意味を調べることで、考古学者は、都市を支配していた壮大な寺院が町の名前にもなった太陽神に捧げられていたことを発見した。
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しかし、柱は何故、異なる色で塗られていたのだろうか?柱がある基点に関係していることが判った時、その謎は解けた。
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暗い色に塗られた柱は西に面していた。一方、明るい色の柱は東に面していた。それらは生命と死、日の出と日の入り、を表わしていると思われる。
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西暦60年、太陽神の神殿は直径が1.8m、高さ18mの柱を54本持つ、全ての神聖な場所の中で最も重要な構造物だった。
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杉材の幹を台車に載せた交易人は、彼らの船が待つ海岸に戻った。ヘブライ聖書の“エゼキエルの書Book of Ezekiel”(mhバビロン捕囚時代のユダヤ人預言者)ではレバノンにあるフェニキアンの都市ビブロスByblosは古代における最大の軍港だったと述べられている。
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優れた船を使っても、海を横切るのは簡単な仕事ではなかった。このことが、地中海全域で神の加護を願う理由の一つだった。金箔で覆われた、これらの貴重な青銅製の像は奇妙な頭飾りを付けている。リーバイ(?)と呼ばれ、フェニキアンに典型的なものだ。
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これらの像はビブロスで沢山見つかっている。奉納品で神の加護を受けるために使われた。フェニキアンの宗教におき、最も重要な礼拝場所の一つで、ビブロスの“オベリスク寺院”で見つかった。
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ビブロスやその他のフェニキアンの都市では、沢山のフェニキアンの貨物船の残骸が見つかっている。
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典型的な船は長さ20mで、大量の貴重な杉や、ミューレックスという名で知られる染料で赤紫に染められた贅沢な織物を運ぶには十分な大きさだった。フェニキアンは自分たちの名前をこの織物に因んで名付けていた。フォイニックス、フェニシアン(フェニキアン)はギリシャ語のフォインつまり“赤”から来ている。
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この貴重な積荷は全ての港で交換されていただろう。しかし、船団の賢い指揮官たちは、その重さと同じ金の価値を持つ“クオロスkurose”を交換品として要求したかも知れない。クオロスは、調和とバランスが取れた男性の体をした、代表的な像だ。
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古代に造られた、これらの多くの像はコモロスComoros(?)の近くのローデス島Rhodesで見つかった。近くで行われた発掘でフィカロラ(?)として知られる、これらの祝賀用の花瓶などが見つかっている。
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ローデス島における、芸術と工芸の極みともいえるこれらの品物は、ローデス島が交易路における重要なハブ(車輪の中心)だったという事実で説明が付くかもしれない。
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長い船旅を、島から島への短い旅で繋なぐ時、ローデス島は必ず通過しなければならない島だった。
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ここに残っているのは干上がった造船所で、何千年もの間、完璧に保存されていた昔の植民地の跡だ。
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ここでギリシャ人たちは織物や船用の杉を交換品として提供された。
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その見返りとしてフェニキアンにはギリシャ中から送られてきた美しく装飾された土器や製品が与えられた。その中には、このような美しいギリシャ像やマグナ・グレイシアで造られた青銅の像も含まれていた。
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これらの中には遠く離れた植民地で暮らすフェニキアンの富豪が注文したものもあったかも知れない。この青銅のエフィーベ(男の名?)やマフィアの若者のような像は、古代フェニキアンのシシリー島の植民地マフィアにおける発掘で見つかった。像は地中海におけるフェニキアンの貿易レベルを証明している。
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驚くべき文化交流とも言える交易だ。

花瓶、像、宝石などを満載した船は西への旅を続けた。船はジブラルタルのイスミスで“ヘラクレスの柱”(ジブラルタル海峡のスペイン側に建てられていた柱)を過ぎ、アフリカの大西洋岸に沿ってモロッコからセネガル、ギニアまで南下した。
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当時、フェニキアンだけが大西洋に冒険旅行する勇気を持っていた。古代の人々はヘラクレスの柱よりも遠出することを恐れていたのだ。何故なら、彼らは、その向うは世界の果てだと信じていたからだ。
何がフェニキアンをそんなに遠くまで行かせていたのだろうか?ギリシャ人歴史家ヘロドトスはそれを彼の書物に書き残していた。“黄金”だ!

フェニキアンは商品を船から降ろし、砂浜に並べると、また船に戻って、狼煙(のろし)を上げた。
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原住民は狼煙を見ると、浜に出てきて、交換用の黄金を商品の脇に並べ、引き下がった。フェニキアンは船から下りて、黄金を確認し、もし黄金の量が賞品の交換に十分だと見積もったら、黄金を持って去っていった。そうでない場合は、船に戻り、彼らが満足する黄金が提供されるまで待ち続けた。
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アフリカ人は東方の派手な製品に魅かれ、現地で豊富に採れる黄色い金属には無関心だった。おかげで、この取引はフェニキアンには大きな儲け(バーゲン)だった。高価な土器や宝石類を残し、代りに黄金を摘んで戻るのだ。
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そして今度は、船は北に向けて航行した。イギリスやアイルランドにおける発掘によれば、フェニキアンはこの遠隔地まで到達していた。多くの発掘品は土器と宝石類の交換があったことを示している。北の人々は錫(すず)を提供した。
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フェニキアンやギリシャ人が青銅やその他の合金を製造するために大量に必要だった金属だ。アイルランドはフェニキアンが到達した最北の土地だ。そこで商品を交換すると、船乗りたちは戻っていった。この船旅はいつも危険が伴うものだった。
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勇敢な船長は、北大西洋の嵐の中で、岸に衝突したりしないよう、前方をよく見ようと自分の体を船首に縛り付け、船や積み荷を守った。船長は、船首から船員たちに指示を出していたのだ。もし幸運にも嵐をやり過ごせたら、南のフェニキアンの植民地カディースCadizに向かった。そこで鉄を買い、代金として黄金を支払った。そして彼らはマイヨーカMajorcaに向けて船旅をし、そこから豊かな植民地サルディーニャSardiniaに向かった。
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そこで、考古学者は黄金鉱山を掘り当てた。
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但し、在ったのは黄金を含む地層ではなく、大量の黄金の装飾品だ。現在はカリアリCagliariの考古学博物館に展示されている。
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サルディーニャには金鉱層は全くないので、貴金属はフェニキアンの船でアフリカから運ばれて来たとしか考えられない。サルディーニャ島の植民地では、フェニキアンは自分たちで黄金を溶かして小さな型に流し込み、更に見事な形に仕上げていた。
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サルディーニャはフェニキアンの手工芸品の、特にガラスに関する最大の生産地だった。
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彼らは油や香水用の小瓶、首飾り、特徴のあるお守りなどを造った。
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何世紀もの間、ガラスを発明したのはフェニキアンだと考えられていた。いまでは、科学は、この考えを支持してはいないものの、彼らは間違いなく、ガラス製造分野では比類のない名人masterだ。
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何年もの間、考古学者はこのような、ニヤニヤと笑っているマスクに表された曖昧な笑顔の理由を考えている。
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考古学者はある種の像の長い腕の理由についても知っていない。
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何年か調べて、彼らはその答えを見つけたようだ。マスクは墓から悪霊を追い払うために使われた。腕の長い像については、フェニキアンの医療の、もっと難解な面と関係している。人形は病からの早期の回復を祈願するために神に捧げられたのだ。治してほしい痛みがある場所を手が触って示している。病人が何を治してほしのか、神に思い出させようとしているかのようだ。

石壁と海。
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この組み合わせは、フェニキアンの市場とか交易所だったのではなかろうかと思わせる。サルディーニャのセロスの考古学的な一画には大きな古代建築が残っていないものの、古代の都市設計に関して雄弁に語ってくれる。
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ここでフェニキアンは鉄や鉛、彼らが持っていた錫や黄金の一部を貴重な宝石類と交換していただろう。当時、セロスは宝石類の巨大な生産地の一つだった。ここに残るフェニキアンの遺跡の間に、ニュラゲイ(?)と呼ばれる、全く異質な円形の構造物がある。フェニキアンに打ち負かされたペライトと呼ばれるサルディーニャの古代住民の典型的な建物だ。
これは凡そ3千年前の彼らの村の様子だ。
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ニュラゲイの文明はとても古く、紀元前2千年紀まで遡る。彼らの居住区はとてもコンパクトで、狭い道路はうねっていて、敵の侵略から守り易くなっていた。古代サルディーニャの人々の家は砦のような塔、食物倉庫、作業場、そして居住棟の組合せだった。様々な構造物を特定する特徴はなかったが、重要な建物には中心に炉があり、火を囲んで家族が生産的な活動を行う、ニュラゲイという場所があった。
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しかし、ニュラゲイという言葉は何を意味しているのだろうか?彼らの住居の構造から生まれた言葉のようだ。古代の現地語でニュラはマウンド(盛地)を意味していた。ニュラゲイの壁の造りは居住棟のものより厚い。
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大きな石を、モルタルを使わず、上まで積み上げて造っていた。高いニュラゲイは20mもあった。見てくれは実際、マウンド(盛地)のようだったのだ。

フェニキアンの港には、このノーラのように、全てに共通するものがある。
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それらの近くには必ず岬があるのだ。
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岬の両岸に船を係留することができ、広い船の修理場としても使える。フェニキアンが求めていた唯一の事は、直ぐ上陸し、一仕事したら、再び船で直ぐに出港出来るということだった。

これはノーラのフェニキアンの中心地にあった建物の基礎だ。
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ローマ帝国の占領で、彼らが快適に暮らせるよう改造される時に取り壊されてしまったが、フェニキアンもローマ人の風呂好きな性格を持っていた。ノーラの風呂は贅沢なモザイクで装飾されている。
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西暦2世紀に造られた劇場も見事な造りだ。サルディーニャでも最も魅力的な遺跡の一つになっている。
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このスパルタ式の5世紀のフェニキアンの港からは、船団は多くの玉石や貴重な品々で重くなり、喫水を下げて出港しただろう。

最も大きな考古学上の謎の一つは、最も強力なフェニキアンの植民地で、地中海の女王とも言われるカーセッジ(カルタゴ)の港に関するものだ。
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エジプトのアレクサンドリア生まれのギリシャ人歴史家アピオンは、港には2つの船着き場があったと書き残している。長方形の商業用船着き場と、円形の、中心には島がある軍事用船着き場だ。
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それに相当する場所は見つかっていなかったが、19世紀になり、作家リネー・シャトー・ブリヨン(?)が、ラクレーメの湾の近くの、2つの潟(かたlagoon)の形がその記述にとても似ていることに気付いた。そして彼は、ここがカーセッジだと気付いた。
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この発見は大論争を巻き起こした。論争は1974年の発掘調査で決着した。円形の島を発掘したイギリス人の調査隊は、シャトー・ブリヨンの理論を裏付ける証拠を見つけたのだ。
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船が忙しく行きかうカーセッジ港はローマ帝国以前では最も大きく、近代的だった。
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軍船は商業用船着き場を通り抜け、細い水路を通って軍事用船着き場に向かった。
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商船は、軍事用船着き場へ入ることを禁じられていた。軍事用船着き場に入って行った船は、トゥライリンで3段の櫓(ろ)が並んでいた。しかし、カーセッジには近代の軍船にも並ぶようなクアドラリン(4段の櫓の船)やトゥインクリン(2段の櫓の船?)もあった。
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全ての軍船は地中海におけるカーセッジの支配やフェニキアンの交易路を守る戦いから戻ると、この船着き場に係留された。船着き場は円形で、中心には“海兵隊員の島”として知られる島があった。島と、外側で囲んでいる陸地には停泊場があった。海兵隊員の島で最も高い場所にはパビリオン(監視棟)があり、そこから艦船の最高指揮官は軍令を発していた。
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旗を持った喇叭手(ラッパしゅ)や、先ぶれ(herald)は港の中の船の行動を統制していた。もし喇叭手が左に曲がるよう喇叭で知らせると、停留する余裕があることを告げていた。船が移動する水の幅は90mで、海兵隊員の島の直径と同じだった。中心の島には30の、外周には140の舫(もやい)場があった。係留場のいくつかは2隻の船を舫うことができたので、港には一度で200捜の船を停泊させることが出来た。

カーセッジの軍用船着き場は、海が荒れて外洋に乗り出すのは危険な冬になると、常に船で一杯だった。従って、この時期は、戦いを控える傾向があった。船の修復作業に適した時期でもあった。トライリンは島の、板が横に貼られた、僅かに傾斜した陸に引き上げられていた。
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板は斜面の上で船を移動しやすくするとともに、船を斜面に保持するために使われていた。その入り口部には円柱が設けられていて玄関のような印象を与えていたので、軍用船着き場の外観は優美とも言える様相だった。また、船も特別な美的処理が行われていた。典型的なフェニキアンの船には船首に目が描かれていた。敵を恐れさせるためだったと考えられている。軍船は貨物船と異なり、素早く移動できるよう、櫓(ろ)と櫓の漕ぎ手を乗せていた。
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優れた船乗りだったフェニキアンは船造りでも卓越した技術を持っていた。彼らは船を量産し、船が沈められると、短期間で交替の船を作り上げていた。船の全ての部品には異なる文字が書かれていて、短時間で組み立てることが出来た。こうして、彼らは船団を短期間で造ることができた。
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しかし、カーセッジで商売が忙しい所は、バーサと言う、カーセッジの集団墓地だった。ここで大きな取引が行われていた。
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サルディーニャから送られてきた宝石やガラス製品の販売や取引が行われていたようだ。これらの商品はカーセッジで需要が大きかった。故郷の近東Near Eastに戻る船はナイルを遡って広大な謎に満ちたファラオの王国を訪れていた。
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エジプト人はカルト信仰だったが、王家は金銀や玉石などを欲しがっていたのだ。フェニキアンは宝石をエジプト人だけが織り方を知っている、リネンと交換した。リネンはフェニキアンの船の丈夫な帆(ほ)を作るためには欠かせなかった。彼らはペルシャの宮廷で強い需要があった、めったにない、異国情緒のある商品も入手していた。例えば猿、そして鰐(わに)だ。

こうして商業の船旅を完結させてタイアーTyreの町に戻ると、彼らは、異国情緒のある動物はペルシャ人に、リネンは自分たちの仲間に売った。
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彼らの手元には黄金、銀、そして彼らが杉を買うために払った以上の多くのお金が残った。
彼らの古代の車輪とも言える船旅や取引を通じて、フェニキアンは当時知られていた世界の多くとの関係を形成し、多様な人々と、異なる文化が提供する最善のものを分かち合うことが出来た。フェニキアンが地中海の商売の達人だったことについては議論の余地はない。
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Secrets of Archaeology: Sailing with the Phoenicians
https://www.youtube.com/watch?v=YctseaBS-wE
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<mhの仮説>
紀元前587年または586年、ネブカドネザルよって滅ぼされたエルサレムからバビロンに捕囚されたイスラエル人が編集して完成させたヘブライ聖書(旧約聖書)ば、紀元前8世紀頃に書かれた『詩編』(しへん英語: Psalm)が最も古い書物だと記しています。つまり、紀元前8世紀にはヘブライ語やヘブライ文字があったということですが、紀元前10世紀に生きていたイスラエル王ディビッド、ソロモン、はたまた、ディビッドが打ち破ったというフィリスティンが記録に現れるのは、ヘブライ聖書が初めてです。このことからmhは、デイビッド、ソロモン、フィリスティンは、故郷エルサレムを追われたイスラエル人の郷愁や愛国心が生み出した絵空事だ!と結論いたします。前々回、前回のブログでもご披露したように、ヘブライ聖書以前の、エジプト、ヒッタイト、バビロン、はたまた古代イスラエルの遺跡から見つかる記述の中に、ディビッドやソロモンやフィリスティンが出現していないんですから。彼らが実在していなかったと考えれば、辻褄(つじつま)が合います。

で~ディビッドやイスラエルに対立していたと旧約聖書に記されたフィリスティンは、今回ご紹介したフェニキア人だ!とmhは結論いたします。
その根拠を箇条書きすれば次の通りです。
1) フェニキアンはフィリスティン同様、都市国家でしかなかった。
2) フェニキアンの都市国家はフィリスティン同様、近東Near Eastにあった。
3) フェニキアンの近東にあった都市国家は、エルサレムがネブカドネザルに侵略された時は、フィリスティン同様、既に崩壊し、存在していない。
4) フェニキアンはフィリスティン同様、セム族Semiteではなかった。
フェニキアンはギリシャ方面から地中海を伝って近東にやってきた人々の集団であって、セム族じゃあないんですね。
前回のブログ「フィリスティンの不思議」から作家ザンガーの言葉を引用すると「フィリステインはセム族(注)ではなかった。聖書で“フィリスティン”と言う時はいつも、割礼を受けていない人を指している」
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「つまり、聖書を作成した人々とは違っていたということだ。彼らはセム族じゃあなかったんだ。全てのセム族は割礼を受けていたんだから」
(セム族:西アジアやアフリカに分布し“セム語”を話す。中近東人で代表的にはアラビア人)
5) フェニキアンとフィリスティンは語呂(ごろ)が似ている!
6) 以上から、ディビッドやソロモンがいたとされる紀元前10世紀にあったとされる都市国家に暮らしていたフィリスティンはフェニキアンをイメージしてでっち上げられた民族と言える。
ついでに言えば、くどくて申し訳ありませんが、紀元前11世紀には生まれていたと言われるフェニキア文字で記述された記録の中にディビッド、ソロモン、フィリスティンが出現していないことも、彼らがバビロンに捕囚されたイスラエル人によって捏造(ねつぞう)された人たちだというmhの仮説を裏付けている。

ヘブライ聖書に書かれている物語の多くは逸話や伝説です。しかし、事実を曲解したり誇張したりして作った話であって、全て事実ではない、ということではないとmhは思います。事実を参考にした方が、物語は作り易いですからね。

で~フィリスティンの都市国家は、元々が架空の民族ですから現存しているわけはなく、かつ、フィリスティンのモデルとなったフェニキアンの都市国家は崩壊している訳ですが~
ここで次の命題が生まれます。
命題:都市国家は崩壊する。

これが事実であることは歴史が証明しています。
古代ギリシャにはアテネやスパルタなどの都市国家がありましたが、現在はギリシャという国家です。イタリアもかつては、ミラノ、トリノ、ベネチア、ピサ、フィレンツェなどの都市国家でした。日本だって、戦国時代には、武将が乱立した都市国家の様相を示していました。

で~今では、これら都市国家は全て崩壊し、都市国家を集合した国家の体系をなしているんですが~
何故、そうなってしまったのか?
今後は国家すら崩壊し、世界は一つになるのか?

これらの疑問を解く鍵は、言語じゃあないでしょうか。同じ言語を使う人々がいくつもの都市で独立しているのは生活効率が悪いんですね。で、都市国家は同一言語の人々の集団、つまり国家に変わってきたのです。
そう考えると、世界が一つの国家になるためには、世界中の日常会話が同じ言語で行われる必要がありますが、それを希望しないのは現在の国家の統治者たちでしょう。自分たちの立場が失われるわけですから。よって、当分、世界が一つの国家になることはないとの結論が導かれます。
(完)

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