Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

トラキアの不思議


“トラキア”とは何か?

この問いに答えられた方はかなりの世界史通でしょう。そもそもトラキアは、英語表記はThraceで“スレイス”と発音され、Wiki日本語版でこそ“トラキア”ですが、今回ご紹介するYoutubeフィルムでは字幕スーパーにThraciaと書かれ、ナレーションでは“トラチア”と発音されています。

で~いろいろな表記と読み方をされている“トラキア”とは何かですが・・・
バルカン半島にあった土地というか、王国とも呼ばれた時期もあるようですが、その土地の固有名詞なんですね。今では“トラキア”と呼ばれることはありませんが、昔、そう呼ばれていた場所があったんです!

“Wikiトラキア”で見つかる地図です。
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これは比較的近代における“トラキア”領土を示すもので、歴史の中で拡大したり縮小したりしたようですが、一時は、ブルガリアとルーマニアの国境を流れるダニューブ川The Danube(ドイツ語: Donauドナウ)の北、つまり現ルーマニア、も“トラキア”の一部でした。

バルカン半島一帯については、我々日本人には馴染みが薄いと思いますので、上の地図にそって国名と首都名を確認しておきましょう。
まずは今回の主な舞台の一つであるブルガリアBulgaria(首都ソフィアSofia)、その南東のトルコTurkey(同アンカラAnkara)、ここから時計回りにギリシャGreece(アテネAthens)、マケドニアMacedonia(スコピエSkoplje)、セルビアSerbia(ベオグラードBelgrade)、そして第二の主な舞台のルーマニアRomania(ブカレストBucharest)ですね。あなたはこれらの国と首都をどれだけ言い当てられたでしょうか?そう言うmhはどうだったの?って訊くんですか?それは教えられませんが、このブログの愛読者のあなたなら推察はつくでしょう。

今回ご紹介するYoutubeは、ルーマニアが製作し、ルーマニア人や、お隣のブルガリア人が出演して、彼らの言語で展開される古代の領土トラキアの回顧録です。
アメリカ人が日本語で紹介される縄文時代・弥生時代のYoutubeを見るようだと言えるかも知れません。それじゃあ全く、何だか判らないじゃん!って仰るかも知れませんが、英語の字幕スーパー(subtitle)が付いているんです。これがまた難解な英語でして、いかにもルーマニア人の翻訳で、それを日本人のmhがオンライン英和辞書を首っ引きして、一生懸命、翻訳し、ご紹介するのが今回のブログです。

字幕スーパーがあると、映像が損なわれますので、字幕なしフィルムを見つけ、これを使ってブログを作成するつもりですが、mhのこの涙ぐましい努力を適正に評価して頂けたら、苦労は報われるというものです。

なお、Youtubeフィルムには、愛国心の強い方々が登場して熱い思いを長々と語る場面が続出していまして、それが彼らの拙(つたな)い英文字幕スーパーになり、それを覚束(おぼつか)ない英語力のmhが翻訳するのですから、極めて難解な日本文になっていますが、賢明な読者諸氏には、そうなった経緯をご理解頂き、温かい目で見て頂ければと思います。

なお、古代国家“トラキア”について、ルーマニア人の番組プレゼンテータで作家のダニエル・ドキシン氏は“トラチアThracia”、そこで暮らしていた人々を“トラチアンThracian(s)”と呼んでいましたので、ブログでもこの発音を採用させて頂きます。ご了承下さい。
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THE THRACIANS, トラチアン(トラキア人)
a Hidden History 隠された歴史
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昔から、古代ヨーロッパにおいて、最も人数が多い民族であるトラチアンの国は、神秘に満ちた世界の中で、空が大地と出会う栄光の時代について我々に語りかけている。
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トラチアンは地上から消えてしまってはいない!今日でさえ、彼らは我々の間で生きている。
これは彼らの物語だ。
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ヨーロッパの古代史は書き変えられるべきだろう。
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都市ローマが存在するよりも、そしてギリシャが繁栄するよりもずっと前に、トラチアンはヨーロッパ大陸の広大な大地を人で埋めていた。
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彼らはその歴史の中に、彼らの印を残していたのだ。ヨーロッパの古代に遡る我々の旅は、あなたがたに古代史に対する新たな見解を提供するだろう。あなたがたがこれまで確定されていたと考えていた多くの事が見直さることになるだろう。些細な事実や出来事でさえも、あなた方が知っていた歴史を定義し直すことになるだろう。

今から3千年以上昔、トラチアンは町や見事な城塞を造っていた。
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(パーペリコン;ブルガリア・・トラチアン建設)
彼らの生活は十分に洗練され、知的だった。彼らは果樹園、葡萄、そして穀物を作っていた。
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彼らは金銀を採掘し、精錬していた。そして、恐らく、これが彼等に繁栄と共に戦をももたらしたのだ。

ルーマニア国立軍事図書館ミハイ・ポペスク博士「ギリシャ人ホメロスの有名な古代の叙事詩 “イリアス(英語Iliadイリアド)”を言語考古学的に調べると、歴史の中で人々によく知られているトロイ戦争はアハイアAchaea(ギリシャのペロポネソス半島にある県)の砦の連合と、トロイ周辺で連合したトラチアンの都市との戦いと言えるだろう」
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叙事詩イリアスの第二巻の中で、ホメロスはトロイ人の連合体としてトロイにトラチアンがいたと明確に記述している。
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古代の別の記録でもトラチアンがいたようだと記している。このようなよく知られた記述とは別に、トロイ戦争は資源と権力を巡る戦いで、トラチアンの財宝を賭けた戦いでもあったのだ。
ポペスク博士「トロイでシュリーマンが発見したいくつかの品物を、1941年、ドイツ人科学者たちが分光分析した結果、黄金の多くはルーマニアのアプセニ山地Apuseni Mountainsの鉱山で採掘されたものだと判明した。実際の所、トラチアンは、彼らの精神的、歴史的、地理的な世界の、ギリシャの北部の島を含むヨーロッパ全ての山地で、黄金を採取していたことが知られている」
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「例えば、タソス島Thasos(北エーゲ海のギリシャの島)では、今日でも、住民は自分たち(の祖先)が初めて島に来た時に見つけた金鉱の話をしているが、その金鉱はトラチアンが採掘していたものであることは間違いない」

トラチアン・ゲト・ダチアンThracian-Geto-Dacianの財宝は語る価値のあるものの一つだろう。見つかっている証拠から、数千年前からのものだと判明している。古代トラチアの領土で、現在のブルガリアにあるロドペ山地Rhodopeには、トラチアンの金鉱が残っている。
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この鉱山で、トラチアンは今から何年も前、長い年月に渡って金を採取していた。
ブルガリア研究院考古学者ニコライ・オヴケアロフ博士「我々がいるのはバルカン半島にいくつかある古代の金鉱パーペリコンの中心にある鉱山だ」
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(mh:オヴケアロフ博士はブルガリア人のため、ルーマニア語字幕付きです)

「この辺り一帯の金鉱は、最近、大きな関心を引いているが、まだ完全に調査が終わったわけではない。現時点では、発見した通路や採掘坑は5百m以上あるが、かつては数千m以上あったと確信している。地形調査によって判ったのは、昔、小さな地下水路がこの中を流れていたということだ」
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「その後でトラチアンの坑夫たちが来て、水底に沿って移動しながら岩を砕き、金鉱石を採掘することになった。このパーペリコン鉱山から判ることは、古代トラチアンの技術が極めて優れていたということだ。ロドペ山地、特に南ロドペ山地ではパンゲウ山に沿って、またここ東ロドペでも重大な量の黄金や銀がかつて採取されていたことを我々は知っている」
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「古代の記述家も、ロドペ山地に暮らしていたトラチアンである“ベシのトラチアン”が貴重な金属を手に入れるために地下を掘っていたと記している。その後の数世紀に渡ってギリシャ文明が発展することになったのも、ここロドペ山地で手に入れた黄金のおかげであることは間違いない」

トラチアンの金銀の財宝の再発見への旅は、我々を、いわゆる“トラチアン王家の谷”に導いていく。
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そこでは考古学的な発掘が行われていて、重要な芸術的、歴史的価値のある見事な財宝が見つかっている。
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ブルガリア・カザンラク歴史博物館案内員スラヴカ・ラムチェバ「最初の重大な発見は、1944年4月19日にカザンラク集団墓地Kazanlak necropolisでありました。その後、クプリンカ・ダムの建設の最中に、古代都市セヴトポリスSevtopolisの遺跡が見つかったんです。1982年から2006年にかけて行われた、ゲオルギ・キトヴ氏率いる考古学チームの調査のおかげで、土で覆われた10以上の小山から古代の建造物が発見され、保存されています」
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「この地図で赤く塗られている所がその時期に発見された場所で、“薔薇の谷”と呼ばれていたのですが、“トラチアン王家の谷”と呼ばれるようになりました。そう呼ばれることになったのは、このような狭い場所に、沢山の集団墓地necropolisが集中していたからです」

1982年、ブルガリア人考古学者ゲオルギ・キトヴはとても微妙な状態にいた。というのは、彼が確保できた資金は1週間の考古学調査分だけだったからだ。
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あちらこちらを無作為に掘ることを強いられながら、政府の役人を説得できる、または調査を延長できる何かを見つけられないか考えたり、資金を募る活動をしたりしている最中、彼はマルカタ古墳Malkata tumulusを掘り当てた。最初の2日間の失望の後、彼は初めて、古代の黄金の品をいくつか発見する。これで必要な発掘資金を手にすることが出来た彼は、その後の7年間で、素晴らしい財宝や、葬儀用の構造物や、実に印象的な壁画などを見つけた。
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ブルガリアにある1500の古墳のうち、これまでに、およそ150で調査を終えている。そこから発見されたものはこの地における古代史に、これまでと全く異なる光を当てることになった。
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トラチアンの王家の墓はユネスコの資金援助を得て保存され、世界的な観光地になった。
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これらの古墳を調査し保存するブルガリア政府の活動は、実に見事なトラチアンの宇宙観を世界に示している。
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例えばカザンラク墳墓の中では、2500年前に描かれた、幾つかの素晴らしい壁画が見つかっている。トラチアン芸術の極致とも言えるものだ。
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同心円が描かれているドームは華やかな色彩で彩られ、驚くべき世界の広がりを見ることが出来る;馬に引かれた戦車、優雅な生活風景、美しい女たち、召使いを侍(はべ)らせながら音楽を聞いている高貴な男女。
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しばしば、トラチアンの世界は野蛮だと言われてきたが、これらの様子が野蛮人の世界を反映したものではないことは明白だ。
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統治者たちの遺体を埋葬するという当初の目的とは別に、トラチアンの墓は、象徴主義や芸術が加えられ、しかし同時に天球への入口でもある。
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(ブルガリア・オストゥルスカ古墳の墓)
生と死の境界で去りゆく人を見続けているトラチアンの女性たちの燦爛(さんらん)たる顔が見える。
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印象的な他の墓としては、カザンラクから15Km離れたゴリアマ・コスマトゥカで見つかったセウセス三世の墓がある。
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長い通路、大理石の扉、神々の胸像があるアーチ状の空間など、手が込んだ建造で、トラチアン芸術の驚くべき宝物が発見された。
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トラチアンのセウセス王の墓はブルガリアの墳墓だが、セウセス王たちの王冠は、他のトラチアンの財宝と共にカザンラク博物館に展示され、卓越した芸術的な洗練性を放っている。
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今からおよそ2500年前のものにもかかわらず、この作品は今でも見事としか言いようがない。セウセス三世の王冠は、間違いなく、カザンラク博物館における最も見事な品物だ。月桂冠laurel wreathは黄金の樫(かしoak)の葉と団栗(どんぐりacorn)で構成され、繊細で、しかし同時に印象的で、芸術作品の極(きわ)みと言える。
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その脇に展示されているのは繊細な出来栄えのセウセス王の青銅像で、我々の思考を興味深い、謎に満ちた古代に運んでくれる。
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これらの財宝が全てこんなにも芸術的で繊細に作られているのは、オドゥリシアンの偉大なトラチアン王国の創設と同時に作られたものだからだ。
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(ソフィアの歴史博物館内のトラチアンの財宝)

紀元前6世紀、テレス王はダニューブ(ドナウ)の南側のトラチアンを併合して強力な王国を創ることに成功し、現在のブルガリアから、ギリシャの、植民地だったアポロニアまで領土を拡張した。
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そして現在のルーマニアにあるドブルジャ地方では、別のトラチアンのゲタエスがオドゥリシアンのトラチアンに組することを受け入れた。この王国は、紀元前4世紀、シタルケス王のコチゾン王国で最盛期を迎えた。
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オドゥリシアン王国はセウセス、コティス、そしてケルセブレプテスらの王による統治の下で繁栄を続けたが、その統治の後期の紀元前341年、オドゥリシアンの国家はマセドン(マケドニア人)のフィリップ2世によって征服された。
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そしてトラチアンの領土は、フィリップ二世の息子で、古代で最も偉大な征服王であるマセドンのアレキサンダー三世の軍隊の兵士を産み出す主な場所の一つになった。トラチアンの兵士や将軍たちは、アレキサンダーと共にアジアまで遠征した。
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その3百年後、ローマ皇帝クラウディウスはオドゥリシアンの王国を侵略し、バルカンの南部でスレイシアThraciaという名の新たな帝国の州を作り上げ、オドゥリシアン王国の痕跡を地上から消し去った。
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バルカンの北部においては、ヨーロッパの大半を横切って流れるダニューブ川は、古代は、人々と文化を隔離する自然の境界だったように思われる。
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しかし、現実は全く異なっていた。トラチアンはダニューブ川のかなり北部まで拡散していたのだ。これらの人々は、数百Km、数千Kmに渡って異なる環境の中で進化していた。ダニューブ川は古代のトラチアンの世界を分断してはいたものの、トラチアンの文化、精神、それに言語の連帯は存在し続けていた。
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ダニューブの南のトラチアンの宝物と似た宝物は北部のトラチアン居住地域でも見つかっていた。
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ブルガリアには現在1500以上の古墳があると見積もられているが、ルーマニアにある古墳は5千を越えていて、その多くは、未だに調査が行われていない。今見えているのは、ルーマニアのカルパチア地方の中心ショーナの見事な墳丘だ。
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そこにある8つの墳丘の内、6つは不思議な雰囲気をもつ2つの列を形成し、ここを訪れる全ての人の好奇心を掻(か)き立てている。
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しかし、ここにある墳丘のいずれも、今まで考古学的な調査が行われていない。政府が科学的、観光的見地から価値を認めてトラチアン・ゲティックの世界に高い関心を持っているブルガリアと異なり、ルーマニア政府は、トラチアン・ゲト・ダチアンの遺跡が持つ歴史的そして観光的に大きな可能性について、残念ながら関心を示していない。
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それにもかかわらず、古代トラチアンが残した多くの財宝が発見されていた。しかし、これらの発見の大半は偶然、または宝探したちによって行われたというのも事実である。

トゥルセアのゲティア協会会長ニコライ・ニコライ「我々は、ルーマニアのトゥルセアTulcea博物館にいる」
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「ここには1931年にモス・コルダンによって発見されたアギグヒオルで見つかった財宝が保管されている。今は完全に破壊されてはいるが、三つの石組みの部屋を持つ墓で見つかった高価な財宝は売り払われていた。私の右手に見えているのはその財宝のレプリカで、本物は第二次世界大戦のかなり前に国から持ち出されていたんだ」
残されていた本物の財宝は、トラチアンの金銀の財宝と共にルーマニアの首都ブカレストBucharestの国立歴史博物館にある。
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アギグヒオルの財宝の発見者であり同時に盗賊でもあったモス・コルダンの物語はとても波乱に富んでいる。彼は最初、大金持ちになったが、死ぬ時には、全ての財産を失っていた。妻は彼の元を去っていて、彼は一人で、ダニューブ・デルタのどこかで隔離され、狂気の中で死んだ。
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古代の財宝にしばしばまつわっている呪いの物語を、自分で確認したいと思っていたかのような結末だった。
(ルーマニア・ペレツの財宝;紀元前4~3世紀)
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(コトフェネシティ兜(かぶと)、ルーマニア;紀元前4世紀)
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これまでで判ったように、ダニューブ北部のトラチアンの領土には金銀の財宝が豊富にあった。これらはオドゥリシアン王国のものと同時代の、具体的には紀元前4,3、2世紀に作られたものだ。
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従って、ブカレストの国立歴史博物館に保管されているいくつかの工芸品は、ブルガリアの博物館に展示されているものととても類似している。つまりダニューブの両岸にあった文明は同じ種類だったということだ。ギリシャ人歴史家ヘロドトスによれば、多くのトラチアンは決して一人の支配者の下で統一されてはいなかったが、彼らは無敵で、地方の様々な特異性を持っていたにもかかわらず、共通の特質を持ち続けることに成功していたのだ。
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同じことは今も起きている。ルーマニアの習慣や民族衣装は様々だが、同じ精神の下で繋(つな)がっているのだ。
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時の流れは古代文明の痕跡の多くを消し去っているが、いくつかについては熱心な数人の研究者の仕事と情熱によって光が当たるようになった。
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ルーマニアの北東部の都市イアッシーでは、ククテニ博物館脇の考古学的発掘サイトで、ゲト・ダチアンの財宝の一つが発見された。
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考古学者民リア・エレナ・マリン博士「円形の壁から出来ているこの見事な構造物は、紀元前4から3世紀のゲティックの王子の墓室を覆っていました」
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「この墳墓はトラチアン領土北部の、トラチアンだけが暮らす地域で見つかった他のもの、例えばアギグヒオルのものと似ています。しかしまた、南の、ブルガリアのものとも似ています」
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「この古墳から遠くない所で兜(かぶとhelmet)やネックレスや多くの金具などの黄金の財宝が見つかりました。それらは装飾的にも図像的にもトラチアンの世界で発見されたものと似ています」
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地中には、どれほど多くの財宝が今も隠れているのだろうか?私たちには判らない。平地に見えているだけでも数千の古墳があり、地中には更に多くの痕跡が隠されているのではないかと私たちは予測している。
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ダニューブの片側や、その反対側で、トラチアンは、オドゥリシアンとか、ゲタエスとか、ダチアンなど、異なる名で呼ばれているが、彼らは古代の中で重要な影響力を持っていた。恐らく多くの人は、ギリシャ神話の中のオルフェウスやディオニュソスといった有名な神々がトラチアン神話の世界からの借り物だと知ったら大きなカルチャーショックを受けるだろう。
ポペスク博士「トラチアンは古代ギリシャの英雄や伝説の分野でとても重要な役割を演じていた。そして、ホメロス以前やホメロスの時代でも、ギリシャ人はトラチアンの神々の何人かを受け入れている。それは女神や男神であり、例えばディオニュソス、アポロ、サバシウスなどのカルトの神々だ」
オヴケアロフ博士「パーペリコンは今から7千年前に人が住み着いた場所だ。石器時代や青銅器時代という初期から、先史時代の人々がここに寺院を建てていた」
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「その後、バルカン半島で、トラチアンはこれを最も大きな寺院の一つに変えた。我々の調査結果によれば、その神秘的で神聖な場所は長さ4Km、幅3Kmで、12平方Kmを覆っている。我々は今、まさにその中心の場所にいる」
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「ホメロスが書き記したトロイ戦争と同じ時期の、この3500年前の複合遺跡は何を意味しているのか?伝説の時代には、つまりトロイ戦争の間、ギリシャ軍もトロイ軍も、兵士の喉の渇(かわ)きを癒(いや)すため、スレイスから送られてくるワイン(葡萄酒)を待っていたんじゃあないかと私は思う。ワインと共にトラチアンの英雄たちが援軍と共にやって来るんじゃあないかと待っていたんだ。これらのワインや英雄たちはここ、この場所からトロイまで行ったんだ」
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「ここでは、丘全体が祭壇で埋め尽くされている。そしてその祭壇の中から、トラシアンの神ディオニュソスに捧げられたと思われる祭壇を我々は見つけている。この祭壇は、恐らく“ロドペ山地からきたトラチアンのものだろう”とヘロドトスが書き記した寺院のもので、ギリシャのデルフィのアポロ神殿と似ている」
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「古代の歴史的な場所であったこの地には、アレキサンダー大王やローマ皇帝オクタヴィアン・アウグストスたち本人が、聖人から未来の予言を教えてもらうためしばしば訪れていたんじゃあないかと我々は考えている」

ゲト・ダチアン協会副会長ニチ・パロッグ「歴史家の一部から若干の軽蔑を込めて呼ばれている、いわゆるトラチアンの“野蛮人”は、見事なギリシャ神話やギリシャの信仰に思いも及ばない程強烈な影響を与えていたことを発見して驚いている。何故なら、このディオニュソスはギリシャのパンテオンにおける偉大な神で、その起源はトラチアンにある」
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「更には、祈祷師で神秘的で古代ヨーロッパにおける黒魔術師shamanだった有名なオルフェウスOrpheusも、間違いなくトラチアンに起源がある」
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「オルフェウスは彼の周辺に生み出される不可思議な信仰(cult)で、とても重要な役目を果たしていた。それは、長い間、ギリシャでは数千年も受け継がれた信仰で、キリスト教の誕生後も続いていた。ギリシャのパンテオンにおける他の偉大な神というと、恐らく、ゼウスについて最も尊敬されているのがハイパーボレアン(Hyperboreanギリシャ神話で北風を吹き起こす山のかなたにあると考えられた永遠の陽光と豊かさの国に住む人)のアポロだ。更には女神アルテミスだ」
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「この二人は古代トラチアンの伝統では“双子の神”と考えられている」

これまで述べられた話を確認するため、我々はトラチアンの世界から神々を借用したことに詳しい人たちから、古代ギリシャの証拠を調べてみた。
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有名なギリシャ人歴史家で地理学者だったストゥラボStraboは、彼の作品“地理学Geography”の中で“トラチアンの女神コティスとベンディスを敬(うやま)い、ギリシャ人は生贄を捧げていた”と言っている。
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同時に、彼はオルフィスの儀式の源はトラチアンだと強調して記している。更に彼は“ギリシャの神聖な儀式はトラチアンから借用したもので、(mhゼウスとネモシネMnemosyneの間に生まれた9人の)女神museたちが古代に敬われていた場所や山は、トラチアンの土地にあった”と述べている。アテネ人たちに関して、ストゥラボは“彼らは特にトラチアンやフリジャンPhrygianの習慣を採用するなど、外部の神聖な儀式を借用することに抵抗がなかった”と言っている。
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このようにして、我々が既にこのフィルムで述べてきたように、古代世界における異なる人物像が生まれ始めた。後で生まれた有名なギリシャ文化が、その当初はトラチアンの大きな影響を受けていた世界を持っていたということは、我々にある論理的帰結を与えてくれる。すなわち、少なくともギリシャ人がトラチアンの神々や伝統を受け入れていた時代には、トラチアン文化は彼らの文化より優れていたのだ!
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トラチアンの精神的な伝統は1千年millennia以上、存在し続けていた。そして紀元前1世紀、ある偉大なダチアンの祈祷師が古代世界でよく知られるようになった。デセネウDeceneuだ。彼について、歴史家のイオルダネスは彼の作品“ゲティカ”の中で“デセネウはダチアンに哲学、倫理学、物理科学、論理学、医学、天文学、を教え、思考に関して、彼らを他の人々よりも優れた民族にした”と言っている。

ルーマニアのスレアヌ山地では、当時、最も重要だった精神的な中心地の一つを今でも見ることが出来る。そこはデセネウ自身によって運営されていた。しばしばストーンヘンジと比較されている精神的なこの場所は“有名なコガヨンKogayon”だと考えられていて、ストゥラボも言及している。

ルーマニア科学学会員ティモティ・ウルス教授「ゲト・ダチアンに関する限り、コガヨン山地にその見事な例を見ることが出来る。それはストゥラボが言っていることだ。コガヨン山地についての有名な引用があるが、それはこの場所から始まったもので、デセネウと彼の祈祷師たちはある種の自治区autonomyを持っていて、当時、この辺りで有名だったという。数世紀後、イオルダネスはいくつかの驚くべき内容を我々に残している。それは彼の時代の歴史的な記録を基にしたもので、現在の我々が知るものよりももっと多様な事実があるのだが、それによれば、ダチアンは星々の軌道、惑星の軌道を知っていたと言うんだ。太陽は地球の何倍かとかも」
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「これらのことは我々にとっては驚きではない。その150年前には、エラトステネス(エジプト・アレクサンドリアで活躍したギリシャ人の学者)が太陽と井戸の底に写る影を観察して、地球の半径を正確に測定していたんだから。コガヨン(人)がそこで暮らしていたと記している多くの記録もある」
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「ストゥラボが述べているコガヨン(という場所)は、当時、科学知識のハブ(車輪の軸)の一つとして有名だったようだ。重要なことは、ダチアンの天文学は今日、我々が知っているものではない、ということだ」
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「ルーマニアの民話の中に取り込まれているのだが、空の女神や神に関するもので、多くの神々や、とても重要な対象だった太陽や月に関するものだ。最初の千年紀の最初の世紀(mh西暦第1世紀のこと?)の初期に、コガヨンで行われていた驚くべき実用的な天文学の研究が花開き、それはさらに重大な出来事を引き起こした。それが起きた場所はゴデアヌ山で、サルミゼゲツサ・レギアの聖域から真っ直ぐ見通して3Kmの位置にある」
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“ウルチム”スペクトログラム(周波数スペクトルを窓関数で変換して算出した結果)を使い、その分野の全てのデータを集積した我々の研究の結論でもあるのだが、そしてその全てのデータは何人かの世界的に有名な天文学者たちの助けを借りて行われた近代天文学の計算によって集められたものなのだが、ゴデアヌが天文観測地点だったのは間違いない、と証明されているのだ。このことは知っておかねばならない重要な情報だ」
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これまでの紹介で、トラチアンの宝とは物質的なものと精神的なものの2つあったという重要な点について気付いたことだろう。今度は、トラチアンの世界の英雄という観点で簡単にご紹介したい。このドキュメンタリーの最初の部分で、トラチアンがトロイにも居たこと、そしてアレキサンダーが領土拡大の遠征に出かける時にトラチアンの将軍や兵士が同行したことを知った。そこで、今度は、ペルシャ帝国を打ち負かしたマッサゲタイ族の女王トミリスTomirisについて注意を向けてみよう。
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ポペスク博士「マッサゲタイのトミリス女王はヘロドトスの歴史書の第一巻に現れている。彼女は紀元前529年頃、ペルシャ帝国の創設者キュロス大王Cyrus the Greatを打ち負かした。この出来事はヒスタスペスの息子ダリウス1世の遠征の15乃至(ないし)16年前のことで、ルーマニアの国家的詩人エミネスクの書物や、その後のギリシャやローマの書物の中で述べられている。中世の歴史家イオルダネスは、女王トミリスがキュロス大王のペルシャを打ち破った後、国民から離れて、サイシア地方Scythia MinorにトミスTomis砦を造って、そこで過ごしたと述べている」
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「この事実はダリウスがダニューブ河口に遠征した際に確認されている。当時の地政学的な流動性の観点から見れば確認出来ることだ。イオルダネスが彼の作品で述べていたことは、ゲタエスを制圧しようとした軍事遠征で確認できたと言える」
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マッサゲタイのトミリス女王がペルシャ帝国を打ち破っておよそ150年後、世界に知られる新たな人物が現れた。ゲト・ダチアンの王ドロミチェテスDromichetesだ。彼はダニューブの南と北を統治した。紀元前3世紀初頭、ドロミチェテス王は、アレキサンダー大王軍の将軍からヘレニズム(注)のトラチアの王になったリシマチャスLysimachusを二度打ち破った。
(注:ヘレニズムとは「ギリシァ風の文化」を意味する。 古代ギリシァ人が自らを英雄ヘレンの子孫という意味の「ヘレネス」と呼び、その土地を「ヘラス」と言ったことによる。 世界の文化史上は、前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシァ文化とオリエント文化が融合して形成された文化をさす)
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ドロミチェテスが彼のライバルに命をかけて教えたことは、今日も生き残っている。ドロミチェテスはリシマチャスを、息子やその軍隊共々捕えて囚人としたが、彼らを殺す代わりに宴席に招(まね)いた。そこでは全ての囚人は黄金の皿や酒器で振る舞われたのだが、リシマチャスとその高官たちだけは陶器で振る舞われたのだ。リシマチャスにはドロミチェテスの意図が伝わった。後に解放されると、リシマチャスは征服していた黒海の砦といくつかの歴史的に重要な地域をドロミチェテスに返還した。彼はゲト・ダチアンの王に妃として自分の娘さえも差し出した。
ポペスク博士「アレキサンダー大王の軍勢や、その後、彼の将軍だったリシマチャスによって行われたダニューブの北の領域への遠征は、当時、北ダニューブのトラチアンが軍事的、政治的に重要だった証拠だ。そしてルーマニアのピスク・クラサニPiscu Crasaniの考古学的遺跡で見つかった証拠はドロミチェテス王の住居だったヘリス砦の位置と強い関係がある」
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「ヘレニズム、ローマ、そしてその後のビザンチンの記録でも言及されているドロミチェテスは、政治的な外交の良き例であり、敵への対応も卓越していて、囚人として捕らえた後も、彼らを丁重に取り扱い、囚人たちも彼を偉大な王だと見なしていた」
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ドロミチェテスに関するその他の素晴らしいものとして、彼の墓が挙げられる。この墓はある考古学的な調査の結果、1982年、ブルガリアのスヴェシュタリSveshtari村の近くで見つかった。
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1985年にユネスコ遺産に登録されたこの墓は、トラチアン・ゲティック文化の特徴的な記念碑だ。これまでに見つかっているどんなトラチアン・ゲティックの墓も、このように特徴的な建築構造、像、絵画を持っていない。
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墓は紀元前3世紀前半からのもので、一つの通路と、前庭、葬儀場、副葬品倉庫の3つの空間で構成されていた。最も興味深いのは中央の空間の装飾だ。フリーズfreize(壁の天井近くで水平に装飾が彫られた帯状の模様)に10人の女像が彫られている。
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考古学者によると、母なる女神と彼女の10人の娘たちを表わしているという。葬儀場には馬に乗った王に月桂冠を渡す母なる女神の絵がある。女神の後ろには贈り物を運んできた女たちが、王の後ろには彼の兵士たちが立っている。
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ドロミチェテスの墓で我々が気付いた最も興味深い点は、墓の入口で見つかったオーロックス(aurochsヨーロッパ・北アフリカの森林に生息していたウシ科ウシ属の野牛)の象徴だ。
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こちらは更に興味深い。ルーマニア北東部のイアッシーにあるククテニ博物館のトラチアンの王子の財宝の中のオーロックスで、ドロミチェテスの墓が在った時代と同じ頃のものだ。
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その後、中世になって、オーロックスはモルダヴィアMoldaviaの紋章coat of armsの中心的な要素になった。この紋章は数百年使われたが、今ではルーマニアの国章だけに見受けられる。これら全ては2千5百年以上も続いていたことを示しているのだろうか?
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(左から1.ドロミチェテスの墓のオーロックス(紀元前3世紀ブルガリア)、2.チュチュテニのトラチアンの墓のオーロックス(紀元前3世紀ルーマニア)、3.モルダヴィアの紋章(15世紀ルーマニア)、4.現在のルーマニアの国章)

トラチアンの英雄を探求する我々の旅は、我々を有名なスパルタクスSpartacusに連れていく。古代に名を轟かせていた闘士だ。
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ブルガリアのソフィア地域で生まれ、ローマ人に捕えられて奴隷にされたスパルタクスは、最も腕力がある、剛健なグラディエーター(Gladiator剣闘士)の一人になった。
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自由を取り戻したいという彼の意志は、紀元前73年、共和国ローマで、過去最大の反乱を引き起こすことになった。この反乱はローマを根底から揺(ゆ)り動かした。彼の戦いは世界中でも知られ、今も彼は自由を求める戦いの世界的な象徴になっている。同時期の有名なグラディエーターにはゲト・ダチアンの王ブレビスタBurebistaがいる。彼はスパルタクスが生まれた場所の統治者になっている。
歴史家ジョージ・イスクル准教授「ギリシャ人歴史家ヘロドトスは“トラチアンは統一されていないが、もし統一されていれば、きっと無敵な民族になっていただろう”と記している。事実、トラチアン・ゲト・ダチアンは人数が多く、古代ヨーロッパの広域で同じ言語、同じ精神性、共通する生活を持ち、賢人や統治者は政治的な統一という考えも当然、抱いてはいたのだが、様々な軍隊がいて、彼らの近在の住民がこれらの土地に定住したいと希望したりしているなど、様々な問題や野心がある環境の中にいた。そんな中で、政治的な統一という発想を実行に移した一人が偉大な王ブレビスタだ。このことは古代の歴史家たちによって何度も語られている」
(アルゲダヴァArgedavaのゲティックの砦;ブレビスタの故郷か?)
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ストゥラボは彼の“地理学”の中で次のように記録している“彼の国の指導者になったブレビスタは国民を奮い立たせ、彼の人々は終わりの無い戦いの辛さで打ちのめされもしたが、彼は新たな成果でそれを補った。彼は命と命令への服従に対して報い、数年で偉大な王国を創り上げ、近在の地域のほとんどをゲタエスの統治下に置いた。
(ブレビスタ王の統治期間:紀元前82~同44年)
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彼はローマ人にさえ恐れられていた。というのは、彼は怯(ひる)むことなくダニューブを渡り、トラチアThraciaだけではなく、マケドニアMacedoniaやイリリアIllyria(現在のクロアチア辺りにあった古代王国)をも略奪する勢いだったからだ。
ブレビスタは遠征の後で、ダニューブの両岸の領土を全て統治することになった。ストゥラボの記述を確認してみると、ディオニソポリスDionysopolis、今日のブルガリアのバルチクBalchik、で書いた記述で“ブレビスタはトラキアの最も偉大な王になった”と我々に語っている。

ブレビスタによって成し遂げられたトラチアン・ゲト・ダチアンの政治的な統合は、ローマで危険を引き起こすことになる。彼はカエサルCaesarとポンペイPompeyというローマの二人の執政官の間の紛争に引き込まれると、ポンペイを支援することを約束した。その結果もあって、紀元前44年、カエサルと同じ年にブレビスタは暗殺され、彼の強大な王国は分裂した。その後の数年で、ローマ軍はダニューブに到達し、ダチアを征服しようと戦を仕掛けて来た。紀元前1世紀の終わり頃のことで、当時、ダチアは王デセバル(Decebalデケバルス)によって統治されていた。
(ダニューブ岸のデセバル王;ヨーロッパ最大の岩の像)
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ダニューブ川はローマ軍には大きな障害ではなかった。将軍フスカスFuscusの指揮の下、西暦87年、デセバルが率いるダチアン軍と戦うべく渡河した。
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ルーマニアのタパエTapaeで行われた最初の戦いはローマ軍の敗北で終わった。この戦いで将軍フスカスは死んだ。その1年後、皇帝ドミティアン(Domitianドミティアヌス)は新たな軍をダチアンに送り込んで来た。この戦いは、記録によれば、ローマ軍が勝利したようだ。驚くべきことは、西暦88年のこの戦いの後、平和が訪れ、ダチアンにとっては望むべきもないものだったようだ。ローマは帝国を保護する費用と称して、13年間、ダチアンに補助金を支給している。更には軍事や民間の施設をダチアに建設するため、ローマ人技術者も提供した。ローマ人がダチアを占領しようという考えを諦めていないと知ったデセバルは、将来の戦に備えていた。
ポペスク博士「ローマ帝国との戦いの中で、デセバルは彼が統治していた19年の間、反ローマ同盟を組織し、これを拡大しようとしていた。この同盟はペルシャ地方から北ゲルマン地方まで、更には、ある資料によれば、支援を約束してくれた中国人の将軍たちとの軍事的、政治的な連携も持っていた遠大なものだった」

西暦101年、ローマ帝国の新しい皇帝トラヤン(Trajanトライアヌス)はダチアを占領しようと進軍してきた。
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こうしてダチアンとローマンの間の劇的な戦いは始まり、ダチアンの王国の崩落で終わった。ダチアンとローマンの戦いは101年から102年、そして105年から106年に行われ、ローマ軍の勝利とダチアの領地の一部の征服で終わっている。
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自分たちを英雄だと考えていたダチアンだったが、不滅の勝利はもはや不可能だった。彼らは当時、世界で最も洗練されたローマ軍と対立していたのだ。捕えられるのを嫌(きら)った王デセバルは自ら死を遂げた。
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ポペスク博士「ダチアを征服した後でローマ軍が略奪した金銀の財宝は、都市ローマやローマ帝国を通した全ての歴史の中で、最大の戦利品だった」
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「しかし、この戦でのローマ帝国の出費は余りに大きかったので、財政復活には数年を要した。ローマ市民は1年分の税金を供出させられ、王デセバルを打ち破った勝利を祝う祭りは123日間も続けられた」
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ダチアンを打ち負かしたことはローマ帝国にとって重要な実益だった。その結果、皇帝トラヤンの下で帝国は最大の領土を持つことになった。
(サルミゼゲツサ・ウルピア・トライアナ;ダチアにおけるローマ帝国首都)
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ダチアンは裕福で略奪するには最高の民族だっただけではなく、強力な戦士でもあったので、当時のローマ軍にとっては最大の強敵だった。恐らく、このことが、勝利の直ぐ後で皇帝トラヤンが帝国の歴史で先例のない行動を執(と)った理由の一つだろう。西暦113年、今日でも彼の名前で知られている有名な石柱をローマに建てたのだ。
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それは今も、観光客にとって最も印象的な古代のモニュメントとして立ち続けている。高さはおよそ30m、直径はおよそ4mあり、レリーフを繋(つな)いで広げれば全長204mになる。柱にはローマとダチアンの戦いの物語が見事な技巧で細部まで緻密に彫られている。

この晴らしいモニュメントのコピーは今日、ブカレストを含む、世界の多くの博物館で見ることが出来る。
(トラヤンの柱のコピー;ブカレスト国立歴史博物館)
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皇帝トラヤンが執った最も信じられない行動を、芸術史専門家レオナルド・ヴェルチェスクは“ローマ人によってダチアンに捧(ささ)げられた図像的プログラムiconographic program”と呼んでいる。
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作品“ローマの像におけるダチアン;古代図像学的研究”の中で、レオナルド・ヴェルチェスクはトラヤン広場Trajan Forumで見つかる100ものダチアン像を個人名で特定していて、今日では世界の様々な博物館にも広められている。
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ローマ人芸術家からこれほどに良い評価を与えられた敵はダチアン以外にはいないのは間違いない。何故、ローマ人は高さ3mもの、彼らが打ち負かした敵の威厳に満ちた姿の像を建てたのだろうか?
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これらの像のいずれもが侮辱されている様子のダチアンを示していないだ。彼らはみんな、力強さと威厳を湛(たた)えている。そしてその多くは、残されている皇帝トラヤン自身の像よりも大きい。
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その論理的な解釈の一つは、ザモルシアンZamolxianの信仰に従い、自分たちは不滅と考え、恐れを知ることなく戦った人々の勇敢さをトラヤンやローマ市民が称賛していたというものだ。しかし、他にも多くの理由はあり得るだろう。
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今日、ルーマニアで公式に受け入れられている理論によると、皇帝トラヤンの勝利により、ダチアンは自分たちの運命を受け入れ、ローマ化されたことになっている。しかし、帝国の領土の外で暮らしていたダチアンを含め、歴史的な記録や、物質的な証拠、それに合理的な理論は、この考えを拒否している。
(mhダチアンがローマに屈服したという、今日のルーマニア政府の公式見解は間違いだ!って言ってるんですね。)
帝国の境界の内部でも、境界の外部と同様に、ダチアンは自分たちの特異性に固執し続け、独立を取り戻そうと戦った。
トラチアンの物語はデセバルのダチアが敗北したことをもって終わりということかも知れない。しかし、それは予想もしない転換を続ける。
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トラチアンの伝統的な世界の重要な部分がローマ帝国の一部になった時、トラチアン・ゲト・ダチアンはローマの市民権を獲得し始め、あらゆる市民権を持つことになった。
(ローマ;ポポロの広場Piazza del Popoloのダチアン像)
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その結果、多くのトラチアンはローマの行政や軍隊の階級社会の中で高い地位を得ることも可能になった。そして、更に驚くべきことに、ローマ帝国を支配できる地位にまで昇格することになるのだ。
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イスクル准教授「帝国に組み入れられていない自由なゲト・ダシアンが帝国に反撃し続けていたダニューブ川下流域でローマ帝国の軍事危機が起きた際、ゲト・ダチアン生まれのローマ軍の将軍レガリアヌスは、モエシアMoesiaとパンノニアPannoniaの軍団によって皇帝に命名された。この出来事は“オーガスタス歴史書August History”の中で次のように言われている“レガリアヌスはイリリアIlliriaで軍司令官の地位を得て、皇帝となった。これを伝えて来たのはモエシアの住民たちだ”」
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「彼について歴史的な記録は次のように述べている“このレガリアンはどの闘いでも軍事に長けていたので、少し前からガリエヌスGalienusによって皇帝と呼ばれていた。つまり彼は統治者としての資質があると思われていた。彼はダチアンでデセバルの血を引いているようだとさえ言われている”」
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(Wiki:マクシミヌス・トラクス;トラチア又はモエシア出身)
歴史によれば、他にもトラチアン・ゲト・ダチアンの生まれの皇帝がいる。彼らの中でも重要な地位にいるのはガレリウスGaleriusだ。
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彼は西暦305年から311年にかけ、皇帝としてローマ帝国を統治した。
ポペスク博士「皇帝ガレリウスは名誉あるダチアンの出身というだけではなく、彼の死から20年程後に教会の作家だったラクタンティウスLactantiusが述べているように、ローマ帝国の名前を“ダチアン帝国Dacian Empire”に代(か)えたいと望んでいた。テッサロニキThessalonikiにある彼の凱旋門の上には、ダチアンの記章を付けたダチアン戦士が数人集まっている姿が彫られている。凱旋門自体も、ダチアンの世界から集めて編成したエリート軍の助けを得て、ガレリウスが勝ち取った勝利を記念しているものなのだ」

テッサロニキのガレリウス凱旋門はダチアンが歴史から消え去ってはいなかったことを示す最良の証拠だ。
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ローマがダチアの一部に侵攻しておよそ200年後、そしてダチアからローマ軍が撤退して数十年後、トラヤンの柱にもいたように、ダチアンがここにいたのだと言うことを我々は今でも見ることが出来る。
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同じ顔、同じ服、同じ種類の武器、そしてダチアンの兵士の象徴“ドラコDraco”が彫られている。
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今日でも、我々はローマで別の凱旋門を見ることができる。その門は全てのトラチアン・ゲト・ダチアンの世界の関心を引くものだ。コンスタンティンの門だ。
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彼はガレリウスの後を継いで帝国を導いた統治者だ。門はポンテミルヴィオPonte Milvioにおける戦いでマクセンティウスMaxentiusに勝利したことを記念して建てられた。この門で驚くべきことは、8人の堂々としたダチアンの像が彫られていることだ。
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彼らは威厳に満ちた様子で、高い場所から見下ろしている。ローマのこの場所で、ローマ帝国に固有の制服を着たローマ人の兵士や将軍を見かけないのは何故だろう?コンスタンティヌス大帝の時代も、ダチアンが極めて重視されていたということなのだろうか?
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驚きはそれで終わりではない。ローマ帝国におけるゲト・ダチアンの重要性と彼らが最高の地位にいたということは、赤い花崗岩・玄武岩で造られたダチアンを象徴している像によっても裏付けられる。
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(赤い花崗岩・玄武岩のダチアン;フローレンス、ギアルディノ・ディ・ボボリ)
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赤い花崗岩・玄武岩が帝国の専売品だった時代に、この高価な石を使って造られた古代ダチアンの石像があったということは、これまで紹介してきた彼らに対する評価を裏付けてくれる。そして驚きはまだまだ続く。
ポペスク博士「西暦6世紀、トラチアン・イリロ・ダチアンThracian-Illiro-Dacianの偉大な皇帝ユスティニアン(Justinian東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の皇帝)はキリスト教版で、ローマ帝国を再建しようとしていた。彼はラヴェンナRavenna(イタリアの都市)の教会の中に、イエス・キリストJesus Christの誕生を祝う3人のマジmaji(三賢人)を描くよう指示した。彼らはダチアンの高貴な人の帽子を被(かぶ)っている」
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「更には、ユスティニアンは帝国の全ての僻地(へきち)の守備隊にダチアン兵士隊を配置して補強していたことを付け加えるべきだろう。そして今日でさえ、例えば(シナイ半島の)シナイ山のサンタ・カテリーナ修道院Santa Caterina Monasteryでは、ある山岳民族が自分たちの出自がワラチアンWallachian(ルーマニアの古典的な場所Wallachiaの住民)であることに誇りを持っていて、ルーマニアから訪れる人に会うと、とても喜んでくれる」

終わりになるが、我々はトラチアン・ゲト・ダチアンが他に優る文化を持っていて、繊細な芸術品創造者だったことが判った。
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我々は、彼らがギリシャ文化に大きな影響を与え、ギリシャ人はトラチアンの神々や伝統を受け入れていたことを発見した。
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古代トラチアン・ゲト・ダチアンの英雄たちは彼らの英雄や行動の新たな象徴となっていた。
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更には、トラチアン・ゲト・ダチアンはローマという、古代において最も偉大な帝国の統治者にもなっていた。
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これらの事実は、これまで我々が知っていた古代史を全て再考させることになるのだろうか?古代ヨーロッパで最も多かった人々は虚空(こくう)の中に消え去ってしまったと主張する理論を我々は受け入れることができるのだろうか?
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大学教授ヴァシレ・ボロネアント「トラチアンの領域で行われた考古学的調査の結果は、ヨーロッパの歴史は書き変えられねばならないと我々に強く訴えている」

ルーマニア国会議員団長ニコライ・ミルコヴィチ「子供の時から、私は本能的に、我々の民族の中心的な個性が時代の中で失われることなんてありえないと思っていた」
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「占領地で、同時に自由な土地でもあったダチアが、学校の歴史で教えられたように、みんなが言っているように、そんなにも短い期間にローマ化されてしまったということはあり得ないと思う。今、我々はこの国土の住民として、つまりダニューブ川の北のルーマニア人でダニューブ川の南のブルガリア人として、共通のルーツを持っているのは明白だ。我々は実際の所、トラチアンの子孫なのだ。トラチアン・ゲト・ダチアンは我々の間で生き続いている。事実、彼らは我々自身なんだ!」
The Thracians, a Hidden History - HD 2013
https://www.youtube.com/watch?v=wxjwMKqkeAM&t=201s
(次のURLは字幕なしです。ブルガリア人の語りは字幕がありますが)
https://www.youtube.com/watch?v=hc7xwXZyf2Q
・・・・・・・・・・・・・・・
最後までお付き合い頂いた読者の皆さん、お疲れ様でした。ブルガリア、ルーマニアを拠点としていたトラチアンとはどんな民族だったのか、概要はご理解いただけたのではないでしょうか。アレキサンダー大王の国マケドニアに編入され、その後はローマ帝国に吸収されたものの、3人の皇帝を輩出しているんですね。
ネットで見つけたルーマニアの民族衣装です。
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いろいろな種類があるようですねぇ!
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Youtubeでもトラチアン(トラチア人)は多様だと言っていました。
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日本人というと、画一的な民族じゃあないかとmhは思いますが、その理由としては、衣装に大きな違いがないことが挙げられるのかも知れません。
しかし・・・
沖縄の民族衣装とか、北海道(アイヌ)の民族衣装ってのもあったはずだし・・・
言語も沖縄と北海道は明治維新まで、本州の民族と異なっていましたから・・・
沖縄人と北海道人は、本州人とは異なる民族だったと言えるのでしょう。
沖縄や北海道の小学校では、祖先の偉大な歴史、言語、などを教えているのでしょうか?

ネットで調べたら、4年程前に同じ質問をしている人がいたんですね。
「沖縄県や北海道などで、歴史教育や国旗、国歌の扱いが違ったりするのでしょうか。例えば沖縄の義務教育で琉球王国史が学ばれなかったり、小学校の入学式で君が代を歌わなかったりするのでしょうか」
と質問していました。
で、答えをくれた人は2名だけだったんですが、それをご紹介すると
回答1
沖縄在住者です。
他の方も述べられていますが、義務教育や国家に対する方向性は内地と全く同じです。 本来、教育カリキュラムとは「固定の教育プログラム」ですので地域特性を出すべき事項では有りませんし、沖縄も内地も同じです。また、国歌に対する対応も「受け入れる」「拒否する」様々で、何れも内地と同じです。
ただ、教育プログラムとは別にですが、自由研究として「沖縄の歴史」「文化(三線や琉舞、民舞など)」を取り入れている学校も少なく有りません。 私の通う三線教室生徒も、「学校の三線自由研究クラブ」に入っています。 正式カリキュラムに組み込む事は不可能でも、自由研究クラブとしてなら、沖縄の学校でお積極的に取り組まれている様です。
回答2
沖縄県ですが、特にそんな事はありません。 国歌を歌うのは当たり前の事ですし、教科書も一般的なものを使います。
あえて違いを上げるとすれば、沖縄戦については多少詳しく学ぶ所でしょうか。

つまり、沖縄人やアイヌ人の名誉ある過去は、占領した本州人には不必要かつ不都合なものとして葬(ほうむ)り去られているのですね。これじゃあ、ウイグル族やチベット族をないがしろにしている漢族の中国政府を非難できませんねぇ。
(完)

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