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ローマ帝国の不思議(3):ローマ帝国の興亡

ローマ帝国の不思議(3):ローマ帝国の興亡  2014年8月13日 Mystery Hunter

いよいよ「ローマ帝国の不思議」の最終回です。

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


                  (ローマ軍旗)
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(Wiki:SPQR)
ラテン語「Senatus Populusque Romanus」の略語で、「元老院とローマの人民(市民)」、すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。
また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭にも使われた。
(Wiki完)

「心はローマ皇帝の子孫!」と自称したナポレオン。イタリアに近いコルシカ島生まれです。
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月桂樹の王冠を被った絵を描かせました。まだローマが世界を統治しているかのように。
ナポレオンは言います「ローマを語ることは世界を語ることだ!」。

しかし、彼が侵攻した時、ローマは既にゴーストタウンと化していました。最盛期の1/10の規模に凋落していたのです。

2千年前、世界で最も偉大な都市だったローマ!
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沢山のタンカーが物資をローマに運び込んでいました。(CG)
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19世紀に蒸気船が現れるまで世界最大の船でした。

西暦100年、1つの通貨と1つのパスポートでイギリスからシリアまで旅行できる大帝国になっていました。
帝国は50万を越す精鋭なローマ軍で守られていたのです。
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ナポレオンのローマ侵攻の20年前、アメリカ議会でジョージ・ワシントンが言いました。
「国家の設立に当ってはローマ建国の歴史を思わざるを得ない。」
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前例のない出来事を成し遂げねばならぬ時期、ローマ帝国を作り上げて行った先人達に思いを馳せ、自らを鼓舞したのです。
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母オオカミと双子の兄弟
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(Wiki: Romulus and Remus(ロムルスとレムスの伝説))
王女から生まれた双子を王はタイバー川に捨てた。しかし母オオカミが拾い、授乳して育て、後に羊飼いの夫婦に養育されて成人になると、彼等を捨てた王を誅殺した。その後どこに町を造るかで諍いになり、兄ロムルスは弟レムスを殺してしまう。ロムルスは理想としていた場所に町を築き、自らの名をつけて「ローマ」と呼んだ。時は前753年。これをもって王政ローマの起源とされる。
(wiki完)

ローマは町として成長し、多くのエトラスカンも移り住むようになりました。やがて市民の怒りが歴史を変える日を迎えます。エトラスカンの王子が、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、ある夜、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしたのです。
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親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白したルクレーティアは、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。

これを伝え聞いたローマ市民は怒り、エトラスカンなら誰でも殺しました。この騒動を機に王政ローマが終焉し、共和制ローマ、つまり王を廃し、代表者達が政権を運営する国家、が生まれたのは前509年のことです。

2執政官と2議会とを置き、投票のルールを導入しました。
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共和制ローマの国旗
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     「Senatus Populusque Romanus」「元老院とローマの人民(市民)」

共和制ローマの末期には、有名なガイウス・ユリウス・カエサル(前100 -前44)が終身独裁官(ディクタトル)になっています。軍人でもあり、文筆家でもあって「賽は投げられた」(Alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか 」(Et tu, Brute?)などの言葉が残っています。

          カエサル統治下の共和政ローマ (前44年)
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前27年、元老院議員のアウグストゥスが、ドサクサに紛れライバルを排除して初代皇帝に就任し、共和制ローマから帝政ローマ、つまりローマ帝国となりました。

ローマ建国の経緯についてはギリシャ人の記述によるところが大きいようですが、前17年に完成した、ローマ人歴史家リウィウスの「ローマ建国史」(全142巻)は有名です。
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木枠で保護された薄いワックスのシートにペン代わりの木の棒で文字が刻まれ、今でも40巻ほど残っているようです。ロムルスとレムスの兄弟で始まった王政ローマ、その後の共和制ローマから帝政ローマ誕生に至る歴史が、伝説と共に記録されています。

帝政ローマは強力な軍隊を武器に、帝国を拡大していきました。
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ヘイドリアン(ハドリアヌス)が皇帝の時、領土は最大になりました。
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      (西暦117年ハドリアヌス皇帝時のローマ帝国版図)

西暦395年、皇帝テオドシウスが死去すると2人の息子がローマ帝国を2分し、それぞれの皇帝に収まりました。東西ローマ帝国の始まりです。
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東西に分かれて80年ほど後の476年、西ローマ帝国で蛮族の反乱があり、皇帝が殺害されて西ローマ帝国は滅亡しました。親戚の東ローマ帝国は、西ローマ帝国の奪回を進め、都市ローマを含むイタリア半島をひとまず東ローマ帝国に編入するのです。
               (東ローマ帝国の国旗と国章)
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(550年の東ローマ帝国。緑色の部分がユスティニアヌス1世によって奪還された領地)

しかし・・・・・・
(Wiki:西ローマ帝国)
これでローマ帝国が救われたかのように思われたが、蛮族の影響は、すでに経済的にも文化的にも、ローマのかつての属州に深すぎる損害を与えていた。これらの土地は、保持するにはひどく経費がかさんだ上に、これらの地域における蛮族の侵入と人口増加は、帝国を一つにまとめていたローマの文化やアイデンティティを破壊、もしくは大きく損なっていたのである。さらに、ユスティニアヌスによる長年にわたった征服戦争はイタリアを荒廃させてしまった。一説には東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、人口はわずか500人ほどしか残っていなかったという。6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。このため、ユスティニアヌスによる「ローマ皇帝の支配」は、旧西ローマ帝国領でローマという理念を信じていた人々を幻滅させる結果に終わった。 言わばこの時、SPQRの消滅をもって、西ローマ帝国は完全に終焉したのである。

東ローマ帝国も、やがて衰退の時を迎えます。
(Wiki:第4回十字軍)
第4回十字軍(1202年 - 1204年)は、ローマ教皇インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として編成された。結果的にキリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブル)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍とも呼ばれる。
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東ローマ帝国を一旦滅亡させたために、十字軍の当初の目的とは逆にこの地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。

その後、コンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国は復活するのですが、モンゴル来襲も続いて帝国の勢力は急速に弱体化していきます。

そして・・・・・・・・
(Wiki:東ローマ帝国の滅亡)
1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバン(英語版)が開発したオスマン帝国の新兵器『ウルバン砲』による砲撃に曝される中、東ローマ側は守備兵7千で2ヶ月近くにわたって圧倒的に不利な状況下で抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の血統は途絶えることになる。

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(Wiki:ウルバン砲)
オスマン帝国が1453年のコンスタンティノーブル攻略戦で使用した大砲。「ウルバンの巨砲」とも呼ばれる。名前は開発者である15世紀のハンガリー人、ウルバン(英語版)にちなむ。ウルバンは当初東ローマ帝国側に大砲を売り込んだが、拒絶された(しかも牢獄に送られた)ためにオスマン帝国に与したと言われている。
使用時は2つを繋いだ。長さは8mで500kgの弾丸を発射できた。
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以上をもって「ローマ帝国の不思議(1)(2)(3)」のローマ帝国興亡史は大団円です!!!

広い領土を永年統治したローマですから、出来事も多く、全貌を知ることは容易ではありませんが、私のブログ(これも長々としたものではありましたが)で、比較的簡単に帝国の興亡をご理解頂けたのではないかと思います。なに?ほとんど忘れてしまったのですか?

でも、凡その流れが頭に残っていれば、冒頭で提示させて頂いた不思議な問題を考えてみることはできるでしょう。

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


ローマ帝国ですが、狭義には、前27年、SPQR(Senatus Populusque Romanus:元老院とローマ人民)の精神がドサクサに紛れて葬り去られ、アウグストゥスが初代皇帝に就任したことをもって帝国の発祥とします。
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しかし、広義には、エトラスカンだった双子の兄弟の仲違いから前753年にローマという町が誕生したことをもってローマ帝国の発祥とするようです。都市ローマが帝国に与えた影響があまりに大きいので「ローマ帝国の歴史は都市ローマの歴史」というイメージが強いからでしょう。

第二の質問「何故、ギリシャ帝国が生まれなかったのか?」に対する、万人が理解でき納得するであろう解答を準備することは容易ではありません。しかし、mhは独断的と非難をされようとも、次のように推察します。

ギリシャの文明は個人の尊厳を重視するものでした。
(Wiki:民主主義)
古代ギリシアにその起源を見ることができる。デモクラシーの語源は古典ギリシア語の「デモクラティア」で、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイは直接民主制の発祥地と言われている。
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写真(上):Pnyx(プニュクス)
世界初の民主的立法府、すなわちアテネの民会が会議を開催した場所。石段を登ったところが演説者の演台。写真中央奥に見えるのはアクロポリスの丘に聳えるパルテノン神殿。

このような思想の人々の間では、帝国主義的な発想、つまり他の国に覇権して土地や資産や労力を略奪し搾取する政策、は主流になりませんでした。ポリス(都市国家)はいくつか出来たものの、これを統一してギリシャという国を造らなかったことがその表れです。

しかし、ローマは違いました。他を統治して栄華を享受するエトラスカンの血統を受け継ぎ、デカダンス(頽廃)におぼれた時もありましたが、持ち前の組織力で世界最強の軍隊を編成し、領土の拡大を進めました。人民、土地、富の管理にも長けていました。2千年も前なのにセンサス(国勢調査)が実施されていたという記録もあります。税と兵の徴収には有効でした。

このような覇権主義のローマ帝国に対し、自由主義のギリシャ都市国家は太刀打ちできず、前148年にマケドニアの属州になり、2年後の前146年には、とうとうローマの属国になってしまったのです。

しかし、ギリシャの文化が全て失われたわけではありません。例えばローマ帝国の公式言語はラテン語ですが、帝国が東西に別れた後の東ローマ帝国では、ギリシャ語が公用語として使われたようです。ギリシャ文明が優れていたからに違いありません。
東ローマ帝国滅亡後、ギリシャの都市国家はオスマントルコの属国に編入されますが、1821年から10年続いたギリシャ独立戦争に勝利し、1832年、晴れて独立国家「ギリシャ」として世界に登場したのです。

一方、イタリアは、西ローマ帝国崩壊後、複数の王国に分かれていましたが、1861年に統一されてイタリア王国となりました。首都はイタリア北部の都市トリノでしたが、1870年にローマが首都となり、今日に到っています。
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以上を持って「ローマ帝国の不思議」の完結とさせて頂きます。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。

なお今回のブログでは次の2つのYoutubeフィルムから情報を得ました。
興味がありましたらご覧ください。いずれも50分程度です。
https://www.youtube.com/watch?v=Z7NlfhaOSh4
https://www.youtube.com/watch?v=h61BZ-O9Wuo

次回は8月18日「サハラの不思議」です。お楽しみに。
(ローマ帝国の不思議:完)


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