Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

テオティワカンの不思議

今回はYoutubeからテオティワカンの不思議(Teotihuacan City of the Gods)をご紹介しましょう。
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西半球最大の文化センターだった。何世紀か繁栄して突然崩壊した。
記録は何も残っていない。遺跡とアートがあるだけだ。
誰が造ったのか?何が起きたのか?
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テオティワカンには今も3つの大きなピラミッドが残っている。
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最盛期の西暦450年、小さい物を含めて200ものピラミッドがあった。本格的に建築が始まったのは西暦80年頃だ。
50平方kmの古代の大都市では15万の人々が高度に設計された住居で暮らしていた。
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その都市が西暦550年頃に突然崩壊したのだ。何の記録も残っていない。
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都市はメキシコシティ北東40kmに在った。文化も人種もマヤ(Maya)とは異なる。子孫と思われるアステカ人(Aztecs)も存在に気づいていなかった。
(mh注)
マヤ(Maya)文明は、メキシコ南東部のユカタン半島一帯、グァテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心に、紀元前5世紀頃からスペイン人の侵略で消滅する16世紀まで続きました。一時期テオティワカンに侵略され、文化面で影響を受けています。
アステカ(Azteca)文明は、1428年頃からスペイン人の侵略で消滅する1521年までの1百年間、現メキシコシティを中心に栄えました。

中米の歴史を語る時、メソアメリカ、プレコロンビアンという言葉が現れます。

メソアメリカ(Mesoamerica)はアメリカの中央(メソ)という意味でメキシコ、グァテマラ近辺を指す言葉です。文明発祥の地メソポタミア(Mesopotamia)は「川の間」という意味で、メソアメリカ同様ギリシャ語が語源です。

プレコロンビアン(Pre-Columbian)は‘コロンブス以前の’という意味です。1492年、コロンブスがアメリカを見つけるまでアメリカ大陸は西洋人には未知の土地でした。しかしコロンブスの発見(最初の航海ではキューバなどカリブ諸島に上陸して現地人の殺戮(さつりく)と、金(きん)の窃盗(せっとう)をして帰国しただけのようです)以降、南北のアメリカ大陸、中央アメリカ、カリブ諸島、は次々と西洋人に侵略され、アステカ文明も、マヤ文明も、インカ文明も破壊され消滅してしまいました。侵略者・破壊者には、コロンブス以前のアメリカは野蛮な土地で、彼らの侵略のおかげで文明も文化も始まった、という独善的視点があって、だから歴史をコロンブス前と後に分けることになったのでしょう。
(mh完)

アステカ人はテオティワカンがあるメキシコ盆地で文明を築いた。恐らくテオティワカン人の末裔(まつえい)だろう。
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彼等が初めて廃墟の都市を発見したのは都市滅亡の7百年後だ。
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彼等はその都市をテオティワカン「神々が生まれた場所」と名付けた。今日、メキシコで最も多くの観光客が訪れる場所だ。しかし、テオティワカンについて知られていることは少ない。

誰が造ったのか?何故滅びたのか?

博物館では戦士の墓跡を見ることが出来る。
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戦士の頭蓋骨を囲むように配置された顎(あご)のレプリカの数は、何人の部下を持っていたかを示している。テオティワカンは神殿の町、平和な都市と考えられていたが、戦士の骨はそれを見直す契機となった。

両手を後ろ手に、そして両足も縛(しば)られた骨も沢山見つかっている。
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恐らく生き埋めにされたのだ。彼らは何者なのか?

歯に含まれる放射性酸素の分析からテオティワカンと関係ない場所で育った人達であることが判った。グァテマラか、テオティワカンの西3百kmのミチュアカンの出身だ。検出された水の成分が似ている。
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また骨に含まれる放射性酸素から、死ぬ数年前からこの地に住んでいたことが判明した。
テオティワカンに連れてこられて数年間兵士として働き、生贄(いけにえ)にされたに違いない。テオティワカンはこの地域一帯では支配的な都市だったから各地から人を集めることが出来たのだ。自らを犠牲にして得ようとするどんな価値がテオティワカンにあったのだろうか?

テオティワカンは特殊な場所だった。神殿のために人が集められ、生贄になったのだ。
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生贄になれば神の加護が与えられ、名誉と子孫の保護が約束されていたに違いない。

この一帯では紀元前4百年頃から人が住んでいた痕跡が見つかっている。しかし都市建設が始まったのは西暦80年だ。建設当初から、この地をメソアメリカの中心にしようという意図があったことは都市のレイアウトから判る。上空から気球で見てみよう。

中央を通る大通りは「死者の大通り」で、通りを挟んで神殿跡が並んでいる。
突き当りにあるのは「月のピラミッド」だ。
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さらに大きなピラミッドが大通り中央辺りの東側にある。
「太陽のピラミッド」と名付けられている。
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ピラミッドや大通りの名、テオティワカンという名も、都市を見つけたアステカ人が付けたもので、原住民が何と呼んでいたのかは記録がなく、全く判ってはいない。
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死者の大通りの南端近くには「羽根が生(は)えた蛇の寺院」と呼ばれるピラミッド跡がある。
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通りと周辺に並んだピラミッドや寺院跡から、この地が信仰を目的とした特別な都市だったと考えて好い。

以下、Google Earthの情報です。
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遺跡の中央を貫く2kmの死者の大通りの一番手前の右に羽根が生えた蛇のピラミッド、その奥に太陽のピラミッド、通りの突き当りに月のピラミッドがあります。

死者の通りは、北、下の写真で右側、に対し約15°東側に傾いていますが、その理由は不明(ミステリー)です。なんだって理由があるはずだ、とお釈迦様ではありませんが、フィルムでも言っていました。Wikiによると、当時は地磁気の北極が地軸の北極から15度ずれていたため、という説もあるようですが、この大通りの延長上に神の山があったとする説の方が正しそうだとのことです。
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北端(右側)が月のピラミッド、中央東に太陽のピラミッド、そして南端の東には羽根が生えた蛇のピラミッド跡(他の2つと比べ崩壊が激しい)です。

死者の大通りの両側には寺院跡が並んでいます。

死者の大通りの最北端にある月のピラミッドを南からみた写真です。
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上の写真の撮影位置でカメラを180度南に振ったのが下の写真です。
太陽のピラミッドが死者の大通りの左側に見えています。
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次は北端の月のピラミッドから死者の大通りを見通した写真です。
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大通りから東に入った太陽のピラミッド。
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角度を変えてみた太陽のピラミッド。
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実はこのピラミッドはブログ「世界の七不思議」で紹介したエジプト・ギザの大ピラミッドに次ぐ世界で三番目の大きさだと言われています。
で、世界最大のピラミッドはというと・・・
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Great Pyramid of Cholula:「チョルラの大ピラミッド」
テオティワカンから90km南東にあります。羽根が生えた蛇を祀る寺院だったようで、3世紀頃から建てられ始めました。Wikiでは面積は400mx400mとなっていますが、次のGoogle Earth 3Dではそんなに大きいようには見えません。
ピラミッドの頂きに立つ建物はスペイン統治時に作られた教会(Church of Our Lady of Remedies)です。
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さてテオティワカンの写真に戻ると、次は太陽のピラミッドから更に南に行った場所でカメラを北側に向けて死者の大通りを見た写真。
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この写真でも判るように、ピラミッドや建物や道の敷石は、石の隙間に白い漆喰(しっくい)が擦(す)りこまれています。この漆喰は石灰石で、実はこの漆喰を使う建築法がテオティワカンの滅亡に繋(つな)がったと考えられています。その理由は後で紹介します。

さらに南に下って、死者の大通りの真ん中で北を見た写真。
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次は南端東側の、羽根が生えた蛇のピラミッドの正面写真。祭壇の向こうがそうです。
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蛇のピラミッドの祭壇から北を見た写真です。手前にはピラミッド前の広場を囲む階段状の遺跡の一部が見えています。
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「羽根が生えた蛇」のイメージをネットで見つけたのでをご紹介しましょう。
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左の絵は羽根の生えた蛇が人を飲み込む様子を、右の絵は恐らく擬人化された羽根の生えた蛇が、何かを殺そうと追いかけている様子を描いているようです。崇拝されていたのか、恐れられていたのか?きっと、恐れられながらも崇拝されていたのではないかと想像しますが・・・

さて、以降は少し話を端折(はしょ)って、手早く進めていきましょう。

太陽のピラミッドに昔から掘られていた長さ1百メートルの孔に、科学者はミュオン検知器を設置しました。(muonミュー粒子;解説は省略しますが小さくて石をも通過します。)
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ピラミッドに空洞があると、突き抜けてくるミュオンの量が増えます。
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今後数年かけてテータを蓄積し、空洞がどこかにないか、探そうとしているのです。
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テオティワカンから数十km離れた所に坑道があります。
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中には黒曜石(こくようせきObsidian)の鉱床があり、今でも採掘されています。
黒曜石は火山性ガラスで、当時はナイフや矢尻などの刃物として重宝がられていました。この石を売り歩いてテオティワカンの富を確保していたのです。テオティワカンの黒曜石は遠くグァテマラでも発見されています。
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住居の壁には祈祷師の絵が描かれていました。羽根が生えた蛇の祈祷師です。
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生贄(いけにえ)になっても再生することを住人が信じていたことを示唆している、と写真の学者は言っていました。
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学校だったと思われる遺跡の壁にはいろいろな遊びの様子が描かれています。
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寺院だったと思われる遺跡の壁に腰でボールを打ち合っている様子が描かれていました。
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今もメキシコ北部にはこのゲーム「ウラマ」を楽しむ人達がいます。
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4,5人のグループ対抗の無邪気なゲームのように見えますが、当時は名誉をかけた試合でした。勝者が生贄になれるのです!!

ピラミッド、石畳の通り、住居など、石組みの建造物には石灰の漆喰(しっくい)が沢山使われていました。
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漆喰を造るには石灰石を8時間800度で加熱する必要がありました。そこで都市周辺の松林の木が伐採(ばっさい)され、燃料として使われました。
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毎年、上塗りしていました。
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そして恐らく、周辺の全ての林は消滅してしまったのだと思われます。

墓の跡からは貝殻などから造られた小さな装飾品が見つかります。
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当時、この辺りでは貴重なものでした。古い墓からはよく見つかります。しかし、新しい墓を調べると、裕福な家庭の墓にしかありません。貧富の差が出始めたことが、こんな些細な装飾品からも推定できます。

実は大きな問題が起きていたのです。
テオティワカン晩年の死者の歯を調べると「成長中断」が確認されました。
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遺跡からは町が故意に燃やされたと考えられる痕跡が見つかりました。
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焼け跡は寺院や支配者の住宅に限られています。残った炭のカーボン・デイティング(炭素年代測定)から、1500年前にテオティワカンが消滅した時期の炭だと判明しました。

生贄となることで繁栄が保証されていた都市テオティワカン。しかし周辺の森林や畑が機能しなくなり、犠牲の代償として約束していた物が与えられなくなってしまったのです。食料すら満足いく状態ではありませんでした。
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住民の反乱が起きました。
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文明は混乱の中で崩壊していったのです。
(補足)
メキシコシティがある場所はメキシコ盆地またはメキシコ谷と呼ばれ、昔はテスココ胡(スペイン語Lago de Texcoco)と言う名の大きな湖がありました。
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上の地図の右上の矢印がテオティワカン、中央左の矢印は、湖の島で現在のメキシコシティの中心部を示し、二点間の距離は約40kmです。
この大きな湖はスペイン人侵攻後に始まった灌漑で消滅し、メキシコの首都に生まれ変わりました。

Google Earthを見ると、上の二つの矢印の中間あたりに妙な図形が・・・
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調べると名前はスペイン語でEl Caracol。英語でThe Snail、つまりカタツムリです。
渦の直径は2.5km。実は塩田で、塩水を乾燥して作った塩を、渦巻き状の道路を通るトラックで回収していたようです。多分、塩田会社の所有地だと思います。敷地内は更地(さらち)で住居はありません。緑色の場所は沼地です。

テオティワカン紹介フィルム(45分)は次のURLでお楽しみください。


テオティワカンの写真集です。(7分)


(完)
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