Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草ー18:仏教徒と洞窟

1月13日ブログ公開で校了した「ムスタン王国」の記事を書いていて、ふと思いました。
「ヒマラヤ奥地のムスタン王国では、アクセス困難な岩壁の洞穴で仏教徒が修行している。仏教徒って何故、不便な洞窟で修行するのだろうか?」
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仏教徒が修行した洞窟例をいくつかご紹介しておきましょう。

2013年6月に訪れた中国・甘粛省の莫高窟(ばっこうくつ)。敦煌の町からバスで20分くらい離れた川の岩壁に掘られた洞穴群です。多くの仏教徒が洞窟に住み着いて修行しました。
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中国・山西省の雲崗(うんこう)石窟も同じです。
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インドのアジャンター石窟(世界遺産)
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アジャンター石窟に彫られた涅槃仏です。
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12月22日にブログ公開したバーミヤン石窟(世界遺産)
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この大仏はイスラム原理主義のタリバン政府に爆破されてしまいました。今はイスラム国家のアフガニスタンにも昔は熱心な仏教徒がいて洞窟で修行をしたのです。

日本については仏教徒が住み着いて修行した洞窟をネットで見つけることはできませんでしたが、磨崖仏(まがいぶつ)なら全国津々浦々で見受けられます、北海道にはなさそうですが・・・
下の写真は九州・臼杵(うすき)の磨崖仏です。
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この辺りで最初の疑問「仏教徒はなぜ人里離れた洞窟に籠って修行するのか?」を考えてみましょう。

まず思いついた理由を忘れないうちに羅列してみると凡そ次の通りです。
1) 若きシッダールタ(釈迦)も洞窟で修行したのでそれを見習う。
2) 仏教徒はイスラムやヒンドゥの迫害を受けたので彼等から逃避する所が必要だった。
3) 仏教の修行は耐乏が基本のひとつなので石窟での住居が適当である。

ゴータマ・シッダールタは、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想して覚醒し仏陀となるのですが、その直前は7km離れた前正覚山の洞窟に籠って苦行をしています。次の写真は前正覚山の洞窟に祀られている釈迦像です。私も2013年10月に訪れました。苦行をしても悟りを得ることは出来ない!と判ったので洞窟を出て菩提樹の下に行って、悟りを得るまでここを離れない!と決心して瞑想した結果、悟りを得た、という経緯があります。
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しかし、仏教徒はお釈迦様を崇拝しているので、お釈迦様と同じような修行をしたい!と願望しているはずですから、洞窟を見つけるか、自ら洞窟を造って、そこで修行しを始めたであろうことは十分考えられます。

人里離れた場所になる理由としては、人里近くは一般的に洞窟を掘るのに都合がよい岩壁が少ない、といった自然条件も考えられますが、洞窟を掘るには数か月は必要でしょうし、近くに非仏教徒の住民が多いと「何を馬鹿なことをしているんだ!」など非難中傷を受けながら掘削作業をしたり修行したりすることになり、対応するのも煩(わずら)わしいから、これを避けて山奥などを選んだ、ということも考えられます。

しかし、もう少し必然的な理由として、仏教徒は仏像を自らの手で彫る習性がある!という事実も挙げられると思います。

キリスト教徒やイスラム教徒が岩山にキリスト像やアッラーの神(そもそもイスラム教のアッラー(神)がどんな姿をしているか、それらしいイメージを持つ人は世界広しと言えども一人もいないでしょうけれど)を彫る、ということは聞いたことがありません。世界の主だった宗教の中では、仏教徒だけが、自らの手で、時間をかけて、崇拝する仏陀や阿弥陀などの像を岩や木に彫っていた、と考えられるでしょう。そして恐らく、仏像などを彫る作業そのものが修行の一つとみなされていた、と思われます。

仏像を彫っている時、仏教徒は、一心に仏の御姿(みすがた)だけを思い描いて作業するでしょうから、心は平安そのものだったと推察します。そして特に岩肌に仏像を彫る時は、何か月も何年もかかることが多く、結局、彫刻作業場所の近くに自分の住家となる洞窟も造ってしまうことになっても不思議はありません。このことから仏教徒は洞窟に住むことが多く、その中またはその近くには仏像が彫られていることが多い、という仮説はそれなりの意味がありそうです。

しかし、仏教徒が人里離れた場所に造った洞窟に住み着く本当の理由は「洞窟で一人で暮らすのが瞑想に最適だ」と考えているからではないのでしょうか。

仏教には「禅」という修行方法があります。この方法を直接、お釈迦様が弟子に伝授したかどうかは知識が無くて断定できません。恐らく、禅をせよ!とはお釈迦様は仰っていないと思います。
しかし「よく考えよ!深く考えよ!」というのはお釈迦様の重要な教えではないか?と思います。そして、考えるためには瞑想する必要があることが多いのです。

キリスト教やイスラム教には聖書やコーランと呼ばれるテキストがあって、こういう時はどうしろ、こんなことはしてはならない、などと細かな指示が書かれているので、テキストを読んで覚えることが信者の重要な行為です。しかし仏教では経典を読むことよりも、瞑想する、つまり考えることが重視されている、と私は思います。

仏教にも経典があって、例えばチベット仏教では一日中、経典を音読する修行もあるようです。日本でも修行僧の重要な修行の一つに読経があるはずです。問答という修行方法もあります。2人で互いに質問したり答えたりするもので、チベットでは問答競走で勝ち上がることは高僧になる条件でもあるようです。日本にも問答による修行もあって「説破(せっぱ)!」などと声をかけては質問したり答えたりするようですが、問答で出題される問題とその答えは、ひょっとすると既に経典などのテキストに記されていて、要はどれだけ記憶しているか、が重要なのかも知れません、勿論、応用力も要求されてはいると思いますが。

しかし、戻りますが、仏教の神髄は、テキストを読むことでも覚えることでもなく、考えることにある、と私は思います。

1月15日のブログ「インドの不思議な質問・答え」に記した「仏教の教えの纏(まと)め」を再度ご披露させてください。

「仏教ではなく‘仏陀の教え’と言うべきだと思いますが、それは次の5点に集約できると思います。
1)諸行無常
   すべてのものは変化する。同じ状態にとどまることはない。
   50億年後は地球さえ消滅します。膨張した太陽に吸収されてしまうのです。
2)中庸尊重
   どちらにも偏らない。
   どちらが好いか、予断は不可能なことばかりです。
   また、偏り過ぎは取り返しがつかない事態を起こしがちです。
3)自力本願
   目標は自分の努力で達成せよ。
   「あまり私(仏陀)を当てにするな!私は神ではない。」
4)因果応報
   原因があるから結果が生まれる。
   良い結果は、それなりの原因があってこそ得られるのです。
5)善行奨励
   ほかの人々が幸せになる行為(善い行い)をせよ。
   それが己の幸せ(好い結果)につながるのです。」

これが正しいとしても、「諸行無常、中庸尊重、自力本願、因果応報、善行奨励」をお経のように繰り返して唱えても人生における問題を解決する答えは得られません。馬鹿か?と思われるのが落ちです。お釈迦様は、世の中の本質とは何か、を説き、本質を理解して対処せよ、と教えているだけで、具体的な問題にどう対応するかは、その都度、自分で考えろ!と教えています。

従って
「仏教徒はなぜ人里離れた洞窟に籠って修行するのか?」
の答えは
「静かに深く考えることが釈迦の教えの神髄だからだ。」
となります。

かなり独善的な結論ですが、、真実だ!と信じられる節もあると自画自賛しています。
さて、皆さんならどう考えられますか?

(追記)改めて、昔読んだ文庫本、中村元訳「ブッダのことば」を紐解くと、仏陀の教えとして私がまとめた上の五箇条は当たらずとも遠からず、というか、かなり遠い、ということを実感しました。まだ読み返したばかりだから、数十ページしか見てないのですが、仏陀が直接言ったのは「全ての生あるものは死滅し、全ての形あるものは壊れる」「優れていると思う教義や結論も、それが優れていると思った時に、ほかの教義や結論について忘れ去る、つまり偏重、こだわりが始まる。偏重しこだわることは真実を見る目を失わせる。」ということのようです。勿論、ほかにも沢山のことをおっしゃってます。

しかし、上の2つに限れば、諸行無常、つまり全てのことはいつも同じではいられない、という言葉や、中庸尊重、つまり偏らない、という言葉と全くかけ離れているというわけでもなさそうですから、まあ、五箇条のまとめもそれなりに意味があるということにしておきたいと思います。

また、仏教徒が洞窟にこもり勝ちな理由についても、関係ありそうな文が見つかったのですが、どこに書かれていたか、探し出せないので、俗世間から離れ、欲望を捨て、というのは私の独断ですが、「犀(さい)の角のように進め!」という教えが、何度も繰り返して書かれていたことをご紹介しておきたいと思います。しかし、俗世間を全く捨てるということは、人の世話にならず、人と交わらず、一人で暮らす、ということで、どう考えても、自然ではないので、お釈迦様ではなく、後の人が創作した教えではないかな?と疑っています。尊敬するお釈迦様ですら、弟子たちと一緒に暮らしたではありませんか。人間は一人では生きていけないというのは疑うべきもない事実でしょう(?)から、問題は、他人とどう関わるか、ではないでしょうか。(完)
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コメント


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ブログを読みながら、松島の瑞巌寺の沢山の洞窟、
仙台の立石寺の五大堂が目に浮かんできました。

主人は、『座禅会』に月1度通っていますが
座禅を組んでいる時は
心意識の運転を停めて、何も考えない状態に持って行く~
それでも浮かんできてしまう事は、そのままにして消えていくのを待つように・・・無心になるそうで

これは「普勧坐禅儀」に書かれていて
「夫れ参禅は静室宜しく、飲食節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥に拘わらんや。・・・とあるそうです。

120歳まで生きそうな勢いの私です。

如何に他人と交わっていくか・・・永遠のテーマです。

monalisa | URL | 2014-12-28(Sun)09:18 [編集]


座禅(禅と同じか?)するのは「瞑想する・考える」のではなく「心を空にする」ためだったんですか!!!
そう言われると、そうかも。

とすると、やっぱり、我が尊敬するお釈迦様の教えとは異なる修行方法ではないかと思われます。
菩提樹の下に座った釈迦が悟りを開いたのは、瞑想したからで心を空にしたからではない、と思うのですが・・・と、ここまで書いたら、心を空にすることが瞑想することなのかな?なんて思ったりして、堂々巡りになってきました。考えても答えはなさそうだから、答えが自然に湧きでてくるまで待つことにしましょう。

で、なんで貴女は120歳まで生きられるんですか?何故150歳ではないですか?お釈迦様からのお告げでもあった、というのなら理解できますが。なにはともあれ、健康第一でお過ごしください、来年も。

mystery hunter | URL | 2014-12-28(Sun)10:53 [編集]