Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ハンHun/Hunsの不思議


前回に引き続き、我々日本人には馴染みが薄い、ヨーロッパ民族の不思議をご紹介いたしましょう。“ハン(日本語Wikiでフン)”という言葉を聞くのは初めての方のために、Youtubeフィルムの内容を紹介する前に、簡単にご教示させて頂きます。

Wiki:フン族(フンぞく、Hun/Huns)
北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴(きょうど)」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている。4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、453年に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。

それでは早速、フィルムをお楽しみ頂きましょう。

その前に、若干の言い訳をさせていただきますと~
フィルムに出演する専門家の表現がmhには複雑怪奇で、その上、早口で、字幕スーパーに出現する単語はmhが理解していない(知っていた意味と異なる意味で使われているということです)か、もしくは忘れた単語が多く、聞いたこともない地名や人名が乱発されていて、翻訳にてこずり、一部は意訳し、一部は割愛(かつあい)させて頂きました。大筋については、Wiki情報を参考に確認・修正をかけていますので、ブログとして楽しんで頂く分には問題ないと思いますが、もし何か疑念の点が見つかりましたら、ご自身でフィルム、ネット情報などでご確認頂き、万一、mhが決定的なミスを犯していたとしたら、ご教示ください。

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西暦5世紀。恐怖が西洋文明を揺さぶった。ローマ帝国は包囲された。蛮族によって。彼らの一番の武器は恐怖だった。彼らはハンだ。
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彼らは東からやってきた獰猛な侵略者だ。世の中を完璧に破壊するためにやってきたかのようだった。しかし、それ以外のものもあった。戦略の達人で、有能な外交官だった。
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彼らは変化を起こす力強い牽引者だ。無慈悲な多くの勝利の中に、彼らは自分たちの痕跡を刻み付けて残した。解放された暗黒の勢力。彼らは世界に新たな秩序を拓いた。
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彼らは東から現れた。アジアのステプ(草原)を突き破るようにして。
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(mhカザフスタンの細長い湖バルハシ湖からアラル海方面に⇒が伸びています)
6世紀のゴシックGothic歴史家ジョー・ダニーズはハンは湿地の真ん中から生まれた悪魔の子孫だと言っている。彼らは今、馬に乗り西に向かっている。ヨーロッパの人々は最悪の事態に備えて砦を強化している。
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聖十字大学トーマス・R・マーティン「彼らは何処からともなく現れたように思われた。欲しい物を奪い去ると馬に乗って去っていった。だから、彼らは地平線から立ち上る嵐のようだった。嵐が予想できなかったように、ハンがどこから襲ってきて、何をしでかすかも予想できなかった。ハンが襲ってくると、生活は文字道理、その場で滅茶苦茶にされた」
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「彼らが巻き起こす大混乱よりも、彼らが思いもしていない時に襲ってくることが大きな衝撃だった」
エモリー大学トーマス・バーンズ「もし不幸にして家から出て、襲ってきた彼らと戦わねばならないとしたら、きっと恐ろしさで死んでしまうだろう。私も老いたが兵士だったので判るが、それは間違いないと思う。彼らに出会う前から、心理的な恐怖が人々を支配していた」
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ハンと戦った人たちが、ハンの戦術に優ることはほとんどなかった。
ノックスヴィル・テネシー大学マイケル・クリコウスキ「それはとても力強い。間近の敵に立ち向かい、矢を霰(あられ)のように放ち、敵を混乱させて、戦列を組ませない力には恐るべきものがあった」
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馬に乗って駆け付ける所なら何処でも、彼らは必ず混沌chaosと凄まじいまでの恐怖を持ち込んだ。彼らの見慣れない戦闘方式や見慣れない風貌や衣類は、これまで人々が知らなかったものだった。
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彼らが進出しだすと、ローマ帝国すらもこの余所者たちの圧力を感じ始めた。
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マーティン「ハンが何処からやって来たのかについて、我々は正確には知っていない。何故なら、彼らが書き記したものはないんだ。武器や衣服や墓に埋葬した品物など具体的に残っている考古学的遺物は彼らが誰かを特定できるものではなかった」
何人かの歴史家たちは、紀元前3世紀、中国人はハンの祖先に対抗して万里の長城を建てたので、ハン王国の数万人は王国を捨て、数世紀をかけて少しずつ西方に広がって来たのではないかと考えている。
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4世紀の終わりまでには、彼らは西洋文明の縁とも言えるダニューブ川に到達していた。しかし、その時はシーザーやクレオパトラの全能なローマ帝国ではなかった。ローマは衰退していて、2つに分割され、二人の弱い支配者によって統治されていた。
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弟フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウスFlavius Augustus Honoriusは西の首都ラヴェンナRavennaで、そして彼の弱々しい兄アルカディウスArcadiusは東の首都コンスタンティノープルで統治していた。
(mh西暦395年にテオドシウス大帝が死ぬと兄弟が帝国を分割して統治することになりました)
時は西暦406年。ハンとの対立を避けようと望んだローマは自分たちの身内を人質として差し出した。アイエティアスはローマ帝国の将軍の、まだ年若い息子だった。外交の慣例に従い、彼はハンたちの間で友好の印として生活した。
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クリコウスキ「それは異常な行動ではない。事実はアイエティアスは育てられた。又は人質だったが、ハンの王家の一員としての年月を過ごしたと言うべきだろう。理解しておくべき重要な点は、当時、アイエティアスが敵の中で暮らしたということは、彼は彼らと同等の生活をしていたということだ」
マーティン「我々はこのような人々を人質と呼ぶ。というのは、彼らは自由に行き来できなかったからだ。しかし、彼らは王家の人々とほぼ同等に扱われていた。つまり、丁重に扱われ、家族の一員のようだったのだが、勿論、そこから逃げることはできなかった」
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つまり、アイエティアスがそこで暮らす限り、彼は彼らの一員で、彼らの生活の様子を観察することができた。そして、ハンが西で定住している人々の豊かさに出会うにつれて、彼らの生活の方式は変化していった。
それまでは、遊牧民のハンは平原で、必要なものなら何でもかき集めて生き抜いてきた。彼らは農耕や建築や交易に価値を見出していなかった。彼らが才能を発揮したのは戦いだった。戦いこそが繁栄への道だった。角hornと木材と馬の皮(mh腱;けん?).で作った接着剤を使い、ハンは“反射弓reflex bow”という革命的な武器を発明した。
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その高度で卓越した設計の弓の作り方は父から息子に伝えられ、鋭い射撃技術という遺産も産み出した。
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オックスフォード・ウォルシェスター大学ピーター・ヒーサー「反射弓は普通の弓とは反対の方向に曲がっている」
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「木材片はなめして、その形にし、接着剤で固めてその形を維持している。反射弓の優れた点は、僅かに弦(げん)を引くだけで巨大な力を得ることができるので、大地の上で大股に構える必要がないということだ。従って馬に乗ったまま矢を射ることができる」
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長い移住の歴史は、ハンを卓越した騎馬民族にしていた。
マーティン「彼らは古代の世界における、究極の騎兵だと思われていた。事実、彼らは馬の上で生活していたと伝える物語もある。従ってハンは広大な殺戮(さつりく)領域を持つことが可能だった」
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「彼らは戦場で、敵から離れたまま、矢を雨のように降らせて殺戮することが出来た。もし敵がなんらかの反撃をしかけてきても、馬に乗った彼らは、あちらこちらに素早く移動しながら対応した」
ヒーサー「ハンにとって馬が全てだった。短期間に長距離を移動できる射手騎兵としての軍事的な優位性だけではなく、手軽に確保できる馬は食肉や馬乳を提供し、ハンの生活を支えていたと記録に残されている」
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マーティン「アミエイナスの歴史書に書かれているように、ローマ人は、ハンは半分はガラガラ声の言語で話す動物のようで、馬の鞍の下にしまってある生の食材が好物だという伝説や、彼らは恐ろしい、文明化されていない人々だといった話を信じていた」
ローマ人の人質だったアイエティアスは、ハンの間で暮らしている間にルガラという名の若者と友人になった。
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ルガラはハンの次の王になる運命を持っていた。アイエティアス自身も彼の父のようにローマの将軍の地位に上るかもしれない青年だった。西暦422年、東ローマ皇帝セオドシウスはハンに年170Kgの黄金を貢物として払うことに同意し、平和は確保されていた。
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そして3年後、アイエティアスは同盟を別の段階に変化させる。彼はローマ帝国の内戦でハンが参戦するようにしたのだ。
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ローマ帝国におけるアイエティアスの立場は時を経るにつれ強くなっていった。そして西暦433年、彼は報奨(ほうしょう)として、ルガラたちハンに彼らが定住する土地を与えた。そこは現在のハンガリーHungaryだ。
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しかしアイエティアスの星は登った。それは帝国が彼の足元に崩れ落ち、彼の思いのままになったかのようでもあった。ローマとハンの間の平和は続かないだろう。ハンの新しい指導者はアイエティアスを凌ぐだろう。ハンの指導者で凶暴な戦士アッティラだ。
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彼の血を求めた伝説は17世紀も続いている。

443年、歴史の秤は傾こうとしていた。ハンは西に大移動を始め東ローマ帝国と不安定な同盟を結んだ。土地や大量の貢物を東ローマ帝国から受け取る見返りに、ハンはローマへの忠誠を維持するのだ。しかし、その友好は長く続かないだろう。ハンの指導者ルグラが死んだ。その理由は今では不明だが、彼の甥ブレダが新たな王になった。
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それは長くは続かなかった。ブレダの兄弟の野心は強く、二番手で収まってじっとしている男ではなかった。彼の名こそアッティラだ。
ヒーサー「どんな経緯があったのかを示す記録も残ってはいないが、圧倒的な不思議なのだが、アッティラがブレダを殺害させたという。ハンの王子たちの間における、このようなやり方は一般的だ」
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マーティン「私が思うに、アッティラは自分がハンについて持っている夢にとって、ブレダは価値がない男だと考えたのだ。ブレダを暗殺するのはハンの将来にとって価値があると考えた」

ヒーサー「アッティラは間違いなく、大きな力を持つようになっていたカルト(cult異教・邪教)を、カリスマ的なカルトを使った。火星を神と崇めるカルトの持つ剣だ。その剣はアッティラの勝利を保証するものだった」
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「彼は無慈悲だった。ハンの王族家系がローマ帝国によって復活した時も、彼は殺傷し、ローマ帝国のスパイも殺している。無慈悲なのが彼の中心的な特徴だった。つまり、簡単に言えばカリスマ的で無慈悲だったんだ」

マーティン「私が思うに、アッティラは維持可能で長続きする、何か新しい政治的なシステムを打ち建てようとする目的や目標をもっていた。遊牧民が略奪できるものを略奪しながら、ある場所から別の場所に移住するというのではなく、彼らの生活を変革しようとしていたのだ」
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アッティラは、もはや、略奪やハンに対する貢物としての生贄を望むのではなく、それ以上のものを望んでいた。権力だ!

バルカン。447年。ハンによる恐怖の統治は砦化されていない村々を越えて更に拡大し、アッティラは東ローマ帝国、現在のギリシャ、の強大な都市の城壁に到達していた。
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今回、彼は歩兵とともに騎兵の大軍を引き連れていた。アッティラはローマに対してハンを解き放った。
マーティン「ハンは北からローマ帝国領地内に侵入した。ローマ人たちは野蛮人たちに対抗した戦いは諦めねばならなかった。そしてアッティラに立ち向かうための戦場を整えることにした。アッティラはバルカン人や、バルカンの町々を破壊していた。彼は城塞で守られた都市も陥落させ、城塞越え用の塔や城壁を突き壊す棒などを使う包囲作戦も上達し始めていた」
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「どんなに優れた騎兵で勝れた射手であろうと、城塞都市を落とすことはできないのだが、彼は既にそのために必要な技術や武器を獲得していた」
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ヒーサー「かなり信頼できる情報によれば、西暦447年、アッティラの大遠征の進路にあった60もの、かなり優れた防衛機能がある場所がハンによって陥落している」
“アッティラは”とローマ人歴史記録家マルセリナスは記している“ヨーロッパのほとんどを潰(つぶ)して塵(ちり)にしてしまった”
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そして448年、ハン帝国Hunnic Empireの種がバルカンに播(ま)かれることになった。彼らの居住区は黒海から地中海まで広がった。
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アメリカ合衆国本土の半分の大きさだった。ハンは家畜や生存に必要な品物を集めながらも、価値のある略奪品や貢物を集め始めた。毎年、東ローマ帝国から略奪を繰り返し始めて25年で、彼らの実入りは年170Kgの黄金から1000Kgへと6倍になった。
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しかし、こうした成功はハンを変えていった。アイエティアスがハンに土地を与えて以降、彼らは遠出しない傾向が強くなっていた。馬の民を放棄するようになった。
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アッティラの軍隊は今や多くの国に関与していた。ハンはアッティラが望んでいたように帝国への変貌を遂げようとしていた。

448年にはアッティラは、凶悪犯や反逆者たちの王ではなく、現在のハンガリーを中心に生まれ来る帝国の指導者だった。もし、いつの日か、彼が、現在の領土以上を統治するとしたら、彼は皇帝として振る舞い、謙虚さや外交手法を学ばねばならない。
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野蛮人のアッティラはローマと同等の合法的な勢力として見なされたいと望んでいた。
クリコウスキ「古代後期の蛮族を理解する上で人々が犯す最大の間違いは、彼らは人間の肌を身にまとった洗練されていない野蛮人だと考えることだ。我々が知っている野蛮人アッティラは、二つが傑出した例の一つであって、洗練されている外交官でもあった。大人になってから帝国の影で経験を積み、皇帝とどう付き合えばよいのか、自分たちの帝国をどう管理すればよいのかを学んでいたんだ」
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マーティン「世代を継いで自分たちをローマ帝国に恐怖を与える勢力にまで変革していく中で、アッティラはローマと仲間になれる帝国を造ろうとの野心を持った。そこで彼は賢くも、そういった政治的な組織に相応しいモデルを探そうと決めた。どこでそのモデルを見つけられるかといえば、帝国の首都ローマだ。」

歴史記述家プリスカスは述べている“アッティラは世界の民族を震え上がらせるために生まれて来た男だ”
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西暦450年。彼は突然、その機会を得る。東ローマ帝国皇帝セオドシウスは馬に乗っていて事故で死んだ。新皇帝のマーシオンは知られていない、無謀な軍人だった。
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彼が出した最初の勅令の中で、彼は反抗的にも、彼らがハンに差し出していた年貢(ねんぐ)の支払を拒否したのだ。マーシオンはハンを怒らせて戦をしようと望んでいた。そうすれば、彼らが強力な勢力になる前に潰してしまうことが出来る。しかし、運命は別の道を用意していた。ローマ軍は弱体化し切っていて、一人の反抗的な女によって設定された、一連の奇妙な出来事にもはや対処できなくなっていた。
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西暦450年。東ローマ帝国における不安定な地域にとって、アッティラが率いるハンとの戦は避けられないように思われた。しかし、彼らは驚くべき行為にでた。東ローマ帝国がハンに年貢を払うのを突然拒絶したにも拘らず、アッティラは外交的な抑制を保ち、指導者の先見の明を行使した。時は今ではないと、攻撃を控えていた。この決断は賢かった。もっと大きな報酬(ほうしゅう)が用意されていたのだ。ローマ帝国の西半分では、イタリアのラヴェンナRavenna(西ローマ帝国の首都)で、ある兵士たちの分隊が地位の高い役人を逮捕しようと動いていた。
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その役人はローマ帝国の行方を永遠に変えるかも知れないスキャンダルの中で捕まっていた。ローマ皇帝バレンティニアンの妹アノーリアは彼女の恋人の侍従の子供を身ごもっていた。彼女の兄は侍従を逮捕し、死刑に処するよう命令した。
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一方のアノーリアは愛のない婚約をしいられた。しかし、彼女はそれを無視した。
クリコウスキ「彼女は独自の情報網を持っていた。彼女は影響力や権力があった。彼女は王室の女性がしばしばそうであるように、帝国レベルで政治的に動けるだけの力を持っていた」
アノーリアは直ちにアッティラのハンに使者を派遣し、大胆な提案を持ちかけることにした。
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使者はハンガリーの北部にあるアッティラの王宮に到達した。手紙の文面は短いものだったが、文明社会を揺さぶるrock力があった。
運命から逃れるため、ローマ皇帝の娘はアッティラに結婚を申し込んだのだ。
クリコウスキ「彼女はアッティラ宛に手紙を書き、自分を花嫁として、そして西の帝国をその嫁入り道具として差し出す提案をした。もし彼がイタリアに来て、彼の報奨である帝国を征服し、自分を救い出してくれるなら」
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ヒーサー「ハンガリーの平原にその手紙が届いた時、それは特殊な瞬間だったに違いない。西ローマ帝国の王女からの手紙で、腕輪も一緒に届けられた。それは彼女が書いたことは本気だという印でもあったんだ」
マーティン「アッティラは、この招待状を真剣に取り上げた。彼女の兄の皇帝もそうだった。皇帝はこんな馬鹿なことが起きるなんて信じられないと言っていた。アッティラは使者を送って“これは正しいことだ。あなたはあなたの妹の希望を叶えてやらねばならない。それが彼女の望みなんだから”と伝えた。兄は“女はローマを統治していない。しているのは男だ”と応えてよこした」

アッティラは新しい東ローマ帝国皇帝マーシオンがハンへの年貢の支払を拒絶したことで彼との戦いを正当化することが出来るようになっていた。
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その戦いは、もはや不必要にさえ思われた。西ローマ帝国は、降ってわいたように、もっと実入りが好い、弱体化した攻撃目標になったからだ。アノーリアからの提案を利用して、アッティラは彼の攻撃の鉾先をゴールGaul(mhフランス一帯の旧名)の中心に向け、途中でゲベッツ、オストロゴスなど同盟軍を集めながら進軍した。
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そして450年、ヨーロッパ中に暗雲がかかることになった。アッティラはローマを要求する正当性を自分は持っていると信じていた。しかしローマ人たちは同意しなかった。アッティラ軍が血の遠征を開始すると、ローマ王室や神聖な教会は彼を“神の災い”と呼んだ。
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教会はローマで善と悪を描いている。異教徒paganを祝福された者the Blessedと区別している。そして神に代わって悪魔の破壊から帝国を守る仕事をしている。
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教会にとってアッティラは悪魔の化身(けしん)だった。カリスマ的な法王(Pope)レオ1世と彼の側近たちは、ハンの進撃に恐れおののいている町々に厳(きび)しい警告を送った。神は彼らの弱腰を罰した。彼らは教会への素直な従順を示さねばならない。さもなければ、アッティラの蛮行の結果を受けるであろう。
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たった一人の男がハンの猛攻撃に立ちはだかった。かつて幼少期にハンに捕えられていたアイエティアスはローマの最も偉大な現役将軍に成長していた。彼がローマ生き残りの唯一の望みだった。
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子供の時、ハンの間で暮らしながらアイエティアスが学んだこと以上に重要なものはないだろう。
マーティン「アイエティアスが外交的な捕虜としてハンと一緒にいた時、彼はハンの社会に溶け込んでいたはずだ。彼は狩りの技術や軍事訓練を学んでいた。だからハンがどのように戦うのか、どの様に生活するのか、どのように人々を統制するのかを知っていたと私は思う」
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アッティラにとってゴール(フランス一帯)を占領し、彼が夢見ていたハンの帝国を勝ち取るためには、アイエティアスと、彼の戦い慣れしているローマ軍と、その同盟軍を打ち負かさねばならない。これからの戦いの中で、2つの邪険(じゃけん)な文明は互いに対して非情な戦いを仕掛けるのだ。その闘いの結果はローマの行方を決めるだろう。
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451年、ローマは帝国全ての統治を賭けた戦いをハンとの間で開始した。
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勝利のためには持てる力の全てを投入しなければならなかった。
一人のローマ軍騎兵がローマ軍の将軍アイエティアスから別の蛮族への伝言をもって、恐怖に満ちた戦場を横切って疾走していた。
“我々に味方せよ。アッティラと彼の5万のハンの大軍から帝国を守るのだ”
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ローマの以前の敵を、更に大きな宿敵を打ち破るためとはいえ同盟軍に組み込むのは危険な計画だった。殺戮や略奪で知られているハンはヨーロッパを恐怖に陥れていた。もしローマが陥落すれば、彼らによって血塗られた大地が大陸中に広がるのを止めるものは無いだろう。アイエティアスは以前の敵だった部族もそれを理解しているので、ハンを打ち破る戦いでローマを助けるだろうと期待した。
ヒーサー「アイエティアスは問題解決で手段を択ばなかった。ゴート族Goths系ブルゴーニュ人など、ハンと対抗して領土を守ろうと考えるだろう全ての民族から新しい部隊を同盟軍に組み込み、ハンに立ち向かったのだ。そうしてローマ軍と、ローマの要請に呼応した蛮族の連合軍がアイエティアスによって編成されハンに対抗するようになると、ハンは快進撃は止まった」
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6世紀のゴート族の歴史記録家ジョー・ダニーズは書き残している“アッティラと共に戦っていた国家の王たちは言われるがままに動くだけで、アッティラだけが全ての王たちの王だった”
そしてジョー・ダニーズは子孫、後世のために、ハンの指導者アッティラが彼の軍勢に行った演説について書き残している “勇敢な男にとって自らの手で復讐する以上の甘美はあるだろうか?”

闘いではハンもローマ軍も他の異民族の兵力支援に頼っていた。しかし、彼らがどれだけ頼りにできるかは、その時になるまで判らなかった。
マーティン「彼らは異民族がこれだけ忠誠を尽くしてくれるか完全に確信しているわけではなかった。それで敵と向かう時の軍の編成をどうするかなど、つねに悩ましい問題を抱えていた。いつも前方の敵を見ていればいいと言う訳ではなく、時には後方の見方の様子も確認しなければならなかった」
451年6月20日、フランスのオーリオン近くのカタロニア平原Gatalonian Plainsで両軍は対峙した。
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兵士の数は夫々3万から5万で対等だった。そうしてシャローンの戦いの火ぶたは切って落された。それは世界史の中で最も重要な紛争の一つだった。その結果でヨーロッパがハンの手中に落ちるかも知れなかった。紛争は朝から夜まで続き、次の日にもつれ込んだ。
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“戦うにつれ過激になり、混乱し、野獣のようになり、絶え間なく続いた”と歴史書には記されている。それまでに行われたことがないような凄まじい戦いだった。ハンの軍隊は敵の中央に風穴を開けた。その一方でハンに味方していた異民族軍は逃亡するものもいた。戦いは荒れ狂い、兵士たちが入り組んでの殺し合いが続いた。
マーティン「古代の戦いでは歩兵たちは文字通り、死と直面していた。戦いは射手の矢から始まったかも知れない。つまり遠方から矢を打込んで火ぶたが切られたかもしれない。しかし、その後は、接近戦によって決着がつけられることが多かった」
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バーンズ「人が束になって騎兵を先頭にたてて攻めあった。戦いでは接近戦が多かった。押し込んでは、叫んで威嚇(いかく)するのだ。時には叫んで死んでいった。戦いでは大勢が殺されたのだからね。それは恐らく、とてもうれしい死に方だったとは言えないだろうけど。長い時間、血を流し続けて、苦しみながら死んだんじゃあないかと私は思っている。多くの人は出血多量で死んでいったんだ。そういう光景が沢山みられただろう。馬は死んでいき、勿論、人も死んでいった。血を流しながら」
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マーティン「戦いは身の毛がよだつものだった。騒々しかった。人々は内臓を失って、叫んでいた。闘志も消え失せていた。気力を持ち続けることすら難しかった。つまり、アドレナリン漬(づ)けになっていたんだ。戦いは信じられない程に恐ろしいもので、混乱しているとしか言いようがないものだっただろう。戦いの最中では、素早くて確実な情報供給の手段などはなく、一旦闘いが始まってしまうと、特に耳を塞ぐような兜(かぶと)を身に付けていると、付けていない人もいたんだが、自分の体の中で脈動する血の音を聞きながら戦っていたんだ」
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ハンの体制持続力は弱かった。そして、そうと気付いた時には、アッティラの主力軍はローマ連合軍に回り込まれていた。
ヒーサー「戦いは平原で続けられていた。そしてアッティラは初めて大きな軍事的な劣勢に陥った。その劣勢は戦いの初日で決定的だったので、アッティラは馬の鞍を使って自分を火葬する準備をしたという記録も見つかっている。ハンが敬っていた勝利の神は打ち負かされてしまったのだから自決を覚悟したというのだ」
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「しかし、記録によれば、彼は説得されて自決を思いとどまり、戦いに戻った。そのおかげで、ハンの軍隊はアッティラのカリスマ的な指導力を再び得ることができ、完全な敗北は免れた。結果は言わば、引き分けで終わり、ハンは何んとか面目を保ってハンガリーに戻っていった」
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敗走することになったハンは、打ちのめされる事は免れたが、意気消沈してしまったわけではなかった。

勝利した、しかし甚大な数の兵士を失ってしまったローマ軍は、くたびれ果てながら国へ戻っていった。
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ある歴史家はこう書いている“負傷した人たちは喉の渇きを、血と水を混ぜたものを飲んで潤した”
伝説はこう続けている“死者の霊は、その後も何日も、戦場で戦い続けた”と。
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ローマ帝国の偉大な軍隊はハンを破壊することに失敗した。しかし、まだ諦めてはいなかった。それはアッティラも同じだった。ローマを征服しようと言う使命の中で、彼は全ての文明世界や強力なキリスト教会に対抗して戦いを挑むことになる。
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西暦451年。フランスの殺戮戦場のシャローンで、ローマ軍の将軍アイエティアスがアッティラのハン軍に勝利したことを宣言した。一方のアッティラはローマの統治は今や地に落ちたと言い張った。

しかし、アイエティアスはある好機を失っていた。
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彼はその日にハンを全滅させることが出来たはずだった。彼は、そうせずに、ハンが戦場から退却するのを見逃してしまった。それは何故なのだろう?それは今も残っている歴史の謎だ。当惑していた皇帝バレンティニアンに、アイエティアスはハンを見逃したのには戦略的な理由がある、と報告した。しかし、以前、彼らの間で捕虜になっていたアイエティアスには個人的な理由もあっただろう。
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マーティン「ローマの将軍アイエティアスは彼が生きているのはハンのおかげもあると考えていた。それにハンを完全に崩壊させるのはローマにとっても被害が大きすぎると考えていた。更には、ハンは、いつまでもローマの統治に従わずに勝手にやっているゴス(Gothsゴート族)と比べれば、敵性は低いと考えていた」
しかし、アイエティアスがハンを見逃した理由が何であれ、それは彼への信頼を揺るがすものだった。そしてそれ以上の不都合もあった。
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ハンにとっては彼らの最後の遠征は略奪が確約されていたものだった。しかし、シャローンでの戦いはそれを実現させなかった。彼らは期待していた賞金や栄光がないまま長い冬を過ごすことは出来ない。
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ヒーサー「アッティラはまだ彼の軍を統括する必要があったので、今度はゴール(フランス)の代わりにイタリア北部で軍を展開することにした。そこで彼らはイタリア北部を暴れ回って駆け抜けながら城壁の町を陥落し、略奪し、殺戮していった」
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彼の最終目標は永遠の都市ローマを占領することだった。そこには今でもアッティラが獲得する権利を持っているはずのイタリアの宝物(mh王女のこと?)と帝国の一部が、彼が来るのを待っていた。

法王レオは恐ろしい状況にあるとの御触れを出した。
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皇帝からは力が弱まったと見なされていた将軍アイエティアスしかいないのでは、帝国の役人たちも役に立てる状況にはない。今は教会が自らの手で事態に対処しなければならない時だ。歴史は、この叙事的出会いについて、“教皇Holy Seeは”神の仕打ち(アッティラ)“と対面した。
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彼は言葉だけでアッティラを止めようとした”と書き記している。
教皇とアッティラの間で何があったとしても、それを知っている者はいない。
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ヒーサー「しかし、教会側の物語によれば、アッティラはイタリア半島中に警告と落胆を広める準備が出来ていたが、もし国に戻らなければ神の怒りが彼の上に落ちるだろうと教皇に説得され、戻っていったという」

バーンズ「多分、彼は“神の力”と話したのだろう。教皇が説得してくれたと個人的には希望はしているけれどね。もし永遠の都市ローマを責めることがなければ、神がアッティラやハンに対してとても好意的になるだろうと語ったんだ。この教皇はとても堂々として厳かな教皇で、地上に最も偉大な力を及ぼした偉大な教皇だと言われている。神に先駆けて世の中を癒(いや)したのだから」
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「この話は事実とするには出来過ぎてはいるが、しかし、もしこの話が事実なら、そこには何か、何かとても深淵な、恐らく深淵で象徴的な教皇の存在があったはずだ。私が想像するには、教皇はあらゆる戦士たちにとって極めて感動的な効果を与える人物だったと思う。武器で武装されていないが、神の象徴で武装されている人を見るのはとても心やすまることだ。この場合は神の象徴が効果を発揮したのだ。それでアッティラに軍を引き上げるように説得することが出来たのにちがいない」
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アッティラがローマ攻略を打ち切ったことは奇蹟として歓迎された。しかし、今、歴史は異なる物語を提供している。それは恐らく、奇蹟よりも少ないということはない(奇蹟と呼ぶ以上のものだろう)。
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マーティン「何故、アッティラは452年の大遠征で、イタリアを南に侵略し続けなかったのかというのは大きな疑問だ。最も可能性が高い答えは、彼の軍勢は疫病で弱体化していたというものだ。古代においては流行病から守る手段は無かった。今日は元気でも、明日には死んでいるんだ。当時は抗生物質が生まれる前の時代だったんだから。疫病発生に関する信頼できる記録については、しばしば歴史に残されている。そのために人口は激減し、軍隊は力を失ったんだ。このことがアッティラ軍で起きたと考えられる」
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マラリアがハンを破壊した。アッティラの強力な軍隊は蚊(か)という些細な生き物によって征服されていた。それは終わりの始まりを印すことになる。

西暦453年。アッティラの遠征の失敗から1年しない内に、アッティラは軍を再編成して再びローマを征服する計画を立てた。彼は花嫁も手に入れていた。
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バーンズ「彼は、自分よりもずっと古い昔のアレキサンダー大王のようで、帝国中で花嫁を探して政治的な理由で結婚していた男だ。今回は彼にとっては初めてのことではなかったが、最後のことになった」
彼の妻は皇帝のアノーリアではなく、彼はアレキサンダー大王のように英雄として死んではいなかった。
今夜、結婚式の夜、皇帝になろうという野望を持った野蛮人は酒宴でバカ騒ぎしている最中、自分の血が詰まって、野蛮人として死ぬのだ。
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バーンズ「そして彼は死んだ。狭心症か脳溢血で死んだと思われる。自分の血が理由で死んだのは明らかだ。毒殺とか、そういったものではなかった。彼は単純に宴会に負けたのだ。それが語り継がれている話などからの推定だ」
彼が残したハンはその後どうなったのだろう?誰がハンを率いようと立ち上がったのだろう?
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キリスト教の聖書の中で伝えられている歴史の教訓によれば、神の仕打ちに対して“その家系は分裂し、続くことは無かった”
マーティン「アッティラには息子たちがいた。大勢いたと言われている。彼は大勢の息子を作りたいという欲望を持っていた。しかし、理由はわからないが、彼らが統治することはなかった」
バーンズ「アッティラの死が引き起こしたことは、ハンの中核での内紛だ。彼の息子3、4人の間で行われた。内紛は中核の権力を破壊してしまい、それまで従っていた民族のいくつかがハンから離れていく切っ掛けになった」

仮にそうであったとしても、ハンの物語は成功談だ。誰も彼らを殲滅できなかった。ハンの最後は、単純に、色あせて消えていったというだけなのだ。
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バーンズ「ハンが歴史の記録から消えていったと言うのは正確な表現とは言えない。そこにはもはや軍隊はなかった。なぜならハンは連帯を失ったからだ。つまり軍は無くなったがハンがいなくなったということではない。神話では彼らが夕暮れの中を馬に揺られて去っていったとか、更には、彼らの先祖がやって来た東に向かって日の出の中に消え去っていったと言っている」
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「しかし、それが実際に起こったというわけでは勿論ない。彼らは散って、あちらこちらで、人種が混じり合う傭兵(ようへい)の坩堝(るつぼ)の一部になったんだ。しかし、彼らはハンとしての統一は失った。従って、統一したハンとして、帝国を脅(おど)す民族として存在することはなくなった。従って、私の感想では、ハンの終わりはよく語られる物語のようなロマンチックなものではなく、冷厳(れいげん)なものでもない」
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マーティン「ハンは去ってしまったのではない。彼らはまだ危険な存在の民族だった。アッティラの死から20年後も、彼が突然死んだことで、彼の息子たちは、落ち着かず、他の民族はハン王国が生き残ることに嫉妬(しっと)していた」
その後、直ぐに、西ローマ帝国も崩壊を始める。ローマ・カソリックは徐々に指導権を得ていく。事実、教会が植え付けたアッティラの悪魔的イメージは教会の霊気auraを高めていた。
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“神の仕打ちを生き延びた人々はそれを誰に感謝すればよいかを学ぶ”

ローマ教会はアッティラの失墜につれて成長し、教会の統治はその後600年間続くことになる。しかし、アッティラの遺産と歴史における彼の立ち位置は時の流れと伝説によって朧(おぼろ)になっている。彼は教会によって語り継がれた悪質な野獣以上のものだった。ローマによって語り継がれた非情で野蛮な指揮官以上に複雑な人間だった。彼は賢い外交官だった。
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たとえ彼がハンの娼婦の怒りをローマ人たちの上に運んだとしても(?)、無邪気な美女愛好家で、慈悲と寛容を備えた指導者だった。アッティラが率いたハンの歴史は、世界を変えようとする一人の男の試みがどんなに費用が掛かり血にまみれたものになり得るかを我々に思い出させてくれる。彼による8年間のハンの統治はヨーロッパを永遠に変えた。
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そして長期間に及ぶ彼の情熱的な生き方は、規模が大きい軍隊と、一人の傑出した男の個人的な行動が、どのように結合すれば伝説以上に偉大な歴史を創ることになるのかを活き活きと現している。
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Barbarians - The Huns
https://www.youtube.com/watch?v=SQYigCUcZjg
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フィルムで“ハン”という音(おん)を聞いた時、mhは“なになに?ハン?漢(ピンイン;Hànハン)かぁ?漢人(現在の中国の主要民族です)がヨーロッパに遠征していた?ジンギスカンはモンゴル人だけど、モンゴリアン以前に漢人がヨーロッパに遠征し、住み着いていたのか!!!ありそうな話だけど、聞いたことなかったなぁ”ってな滅茶苦茶な類推を巡らせたものです。今となっては、ブログ冒頭に挙げたように、“ハン”は匈奴(きょうど)が出自ではないかという説があったと理解しましたが、謎に包まれた民族なんですね。匈奴(ピンイン;ションヌゥXiōngnú)は、主に、モンゴルの西側の国境近くのアルタイ山脈よりも東(ウランバートル側)の平原を中心にして暮らしていた蛮族です。匈奴の語源はいくつか説があるようですが“「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」「胡貉」「昆夷」「玁狁」に当てたとする説”がmhには最も自然に思えます。

で、古代のヨーロッパ人にとっては、匈奴も漢人も同じだったから、十把一絡(じっぱひとから)げで、ハン(漢)
と呼んだんじゃあないだろうか?とmhは思います。だって、秦の始皇帝が創った秦を継いだのが漢王朝(前漢紀元前206年 - 8年)ですから、ローマはハン(Hàn漢)を聞いたことくらいあったでしょうし、東からやって来る蛮族ならハン(漢)だ!って考えたって不思議はありません。

で、話をヨーロッパのハンHunに戻すと、ハン帝国の位置がWikiに示されています。
Location of Hunnic Empire:ハン帝国の位置
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中心は現在のハンガリーHungary(首都Budapest)です。
HUNSの東西(右左)にはGoths(ゴート族)がいたんですね。ハン帝国の南国境はダニューブDanubeになっています。
民族衣装を着たハンガリー人の祖先はどうみても匈奴じゃあなさそうです。彼らはハンの子孫じゃあないのでしょうか?
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でも、ハンガリー人は国歌で“ムンズクMundzuk (Bendegúz)の血”を引いているって声高々に唱えているんですね。ムンズクはハン族で、アッティラの父親です!ということは・・・ハンガリー人はいろんな民族の混血なのじゃあないかと推定されます。

振り返ってみれば2016-12-05(Mon)「ケルトの不思議Prt-1」を投稿しました。紀元前400年にはヨーロッパの大半でケルト人Celtsが暮らしていたのです。
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詳細に関心がありましたら次のURLでご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-303.html

で~先週のブログでは“トラチア人Thracian”の王国がルーマニア・ブルガリアに在ったことをご紹介しました。
(ブレビスタ王の統治期間:紀元前82~同44年)
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そして今回、ハン人Hunsの帝国についてご紹介した訳ですが、特にトラチアンThracianとハンHunは、領土が隣接しているというか、重ね合っているようで、しかも両民族がそこに暮らしていた時代も同じようですから、一体全体、どう関係しているのか、いないのか、大雑把にしか物事を捕えないmhには訳が分かりません。

ケルトCult、トラチアンThracian、ハンHunは、残念ながら、文字文化を持っていませんでした。従って、彼らの歴史は、ローマやギリシャなど、文字を持つ文明によって記録に残されることになったわけですが、ローマやギリシャが敵対関係にあった民族を美辞麗句で持ち上げるわけはなく、事実は歪曲されて記録されたと考えるのは合理的でしょう。よってケルト、トラチアン、ハンなどの民族の真実は今も不透明なのですね。

間違いないのは、古代ヨーロッパにはいろいろな民族がいて、お互いに影響し合っていたということでしょう。アッティラのハン族の影響を受けてゴート族が西に移動を始めると、その影響でゲルマン民族大移動が起き、その影響で西ローマ帝国が滅びたとWikiにあります。異なる言語を持つ人々の集団を民族と呼ぶなら、意思疎通が不自由な多様な民族が、地続きの大地に混在していたヨーロッパは、紛争が絶えなかったことでしょう。民族の名残は今も残っていて、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、スペイン、イタリアなどなど、異なる言語を国語とした国々が、独自の歴史や文化を尊重しつつ紛争を避けて共栄しようという欧州連合European Unionの将来は不透明といえるでしょう。
(完)

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mh徒然草: 人類は愚(おろ)かなのか?

(9月9日)
北朝鮮がグアムに向けてロケットを飛ばす話は、アメリカを極度に刺激するのを避けたのか、結局は北海道上空を通過させることで終わりましたが、ロケット軌道の下の北海道や東北地方にはJアラート(全国瞬時警報システム)が発令される騒ぎになりました。

その数日後の9月5,6日頃、ある小学校では北朝鮮からのロケット攻撃を想定した避難訓練が行われ、小学校低学年の生徒たちが防災頭巾をかぶって廊下に蹲(うずくま)っている様子がTVニュースで紹介されていました。学校は、地下室への避難も検討したようですが、地下室やそこに続く階段が狭く、避難時に事故が起きる恐れがあるので、窓から離れた廊下に集まることに決めたようです。このニュースをTVで見た方も多いと思いますが、70年以上前の太平洋戦争の時も、こんなことが行われていたんだろうなあという感想を持ったのではないでしょうか。mhの個人的な感想では、やり過ぎだと思いました。

確認してはいませんが、小学校でこの訓練が行われたのは、文科省など、政府からの指導を受けてのことかも知れません。そうだとしたら、政府は安全とともに恐怖を、子供たちに植え付けているとも言えるわけで、空恐ろしい時代になってきたなあと思います。

最近、軍拡の話が世界中で公然と語られるようになりました。アメリカ、中国は、軍事費の拡大を決めていますし、日本も防衛予算を増やすことにしているようです。他国の軍事力が強化したら、これに対抗して自国の軍事力強化に努めるという発想の世界が行き着く先は明白です。戦争に到る前でも、軍事費の増加で疲弊した社会の秩序や福祉が悪化するのは避けられません。世界の指導者たちは、そんなことすら判らないのか、それとも、判っていても、軍拡以外の代替案を見いだせないのか?いずれにしても、愚かな指導者たちだと言わざるを得ません。ならば、指導者を挿(す)げ替えればいいではないか、という主張は何の実効も得られないでしょう。指導者を選ぶ人民が変らなければ、新たな指導者が軍拡を引き継ぐだけです。

そう考えると、人類の将来は悲観的ですが、全く悲観的だとは、mhは思いません。世界が軍拡に向かい、それがために生活貧窮に向かっていくのは愚かな人類には避けられぬことだとしても、自分がその仲間入りをしなければ救われる可能性はあると思います。そのためには何をすべきか?それが何であれ、少なくとも、軍拡がやむを得ぬものとは認めない心意気が絶対必要条件だと思います。軍拡もやむなしとするなら、人類を待つのは暗い未来でしかありません。

最後に“人類は愚(おろ)かなのか?”という今回のテーマに戻ると、mhの答えは残念ながらYesです。いつも愚かだとは言いませんが、どんな人でも、条件さえ整えば、簡単に愚かになると思います。軍拡は、その最たる例と言えるでしょう。大量虐殺の手段を構築し増強していこうっていうんですからね。

Journey - Don't Stop Believing Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=KCy7lLQwToI&list=RDxcQn2nuUJyo&index=35
(完)

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